難波宮跡、大化の改新、大阪城〔1109〕2006/04/29
2006年4月29日(土)大阪は曇ってまんがな
今朝は大阪でおま。
昨夜、なんば界隈をブイブイ言わせて来たもんで、少々二日酔い気味の大阪の朝。そこで、谷町筋から中央通り、そして大阪城の周囲をたつくってきました。今まで迂闊で知らんかったがですが、ここ、大阪城の南に「史跡難波宮跡」という広い広い場所があったのであります。大阪のど真ん中にこんな広くて素敵な場所があるとは知らんかったですきに。
645年の大化の改新の後、孝徳天皇によって飛鳥からここ難波(なにわ)へ都が遷されました。孝徳天皇といいますか、実際には中大兄皇子と中臣鎌足さんですね。
飛鳥の地は、非常に守りやすい地形で、なかなかの立地やった訳ですが、敢えてそこを出てここ難波に都を置いた理由。古来、こぢゃんと活発な議論が繰り広げられてきましたですね。ひまわり太郎が思うに、当時の朝鮮半島の情勢が一番大きな要因でしょうね。唐を後ろ盾にした新羅の攻勢で百済が滅亡、百済と非常に深い関わりを持つ中大兄皇子や中臣鎌足が、そこへ介入していこうとする、そんな事情もあって、海に近いここ難波に都を持って来たとも考えられるのであります。そして結末は白村江の戦いの惨敗。まあ、色んな色んな事情が絡みおうての遷都やったと思います。事実は謎ですが、こんな想像をこんな場所で思いめぐらすがが楽しいがですな。
右手に見える舞台のような部分が、後期難波宮の太極殿の跡地だそうです。その向こうに大阪城の天守閣が見えよります。しばし古代日本に思いを馳せた大阪の朝でした。
しかしひまわり太郎のテンコスが・・・。