真如寺開山と薫的さん〔1099〕2006/04/19
2006年4月19日(水)高知は曇っちょります
昨日、九州から速攻で高知へモンて来ました。大分から博多まではソニックというなかなかハイカラな車両の特急で、福岡空港から高知はおなじみのYS-11でした。日本の空を飛んで41年。今年の9月30日に、定期便ラストフライトを迎えるとのことで、「ありがとう日本の翼 YS-11」というキャンペーンをやりよりました。荷物入れとかが無いですけんど、乗り心地は満点。あの安定感がたまらんですな。
さて、今朝も鏡川界隈です。ここは、筆山の登り口前。左端に見える石段が登り口。右手の立派な門は、山内家菩提寺である真如寺(しんにょじ)の門。禅宗の曹洞宗真如寺。ご本尊は釈迦如来像やそうです。
功名が辻でおなじみの山内一豊さん、関ヶ原の功で土佐へやってくる前の領地は遠州掛川でした。その当時一豊さんは、その地にあった真如寺に参禅しよったそうです。そこの在川和尚さんに心酔しちょったがみたいです。で、土佐の殿様になった後の1601年、一豊公はここの伽藍を建立して、在川和尚を招き、「真乗寺」として開山しました。いつもご紹介する潮江天満宮は、それまでこの地にあったがですが、この開山にともないまして西隣の現在地に移動しちょります。
二代藩主忠義公の時代に「真如寺」という名称になったそうです。
真如寺で思い出すのは「薫的(くんてき)和尚」さん。山内家が入国してくる前の長宗我部氏の菩提寺は、真如寺と同じ曹洞宗の「瑞応寺」。真如寺が土佐へ入って来た頃の瑞応寺の住職は薫的さん。それまで、土佐の曹洞宗で一番格式の高かった瑞応寺より、新参者の真如寺の方が権勢が強うなったので、薫的さんは面白くありません。ことあるごとに対立しまして、藩の指導にも従わず、強硬な姿勢を貫き通しました。そのために投獄され、7年間、自説を曲げず獄中で過ごし、食を自ら絶って最期を迎えたそうです。その後、薫的和尚の怨霊が出る噂が流布し、山内家も、数十年経ってからですが名誉を回復させ、瑞応寺境内への改葬が認められたのでありました。
今でも洞ケ島の薫的神社は「くんてきさん」として親しまれゆうのは皆さんご承知の通り。なかなか土佐の歴史にもドラマがあります。