築屋敷、水丁場、水防と長宗我部残党対策〔1013〕2006/01/23
2006年1月23日(月)晴れ!
今日も晴れ。今朝はいつもよりちくと早め、4:30に起きだして鏡川をたつくりまわってきました。とにかく、2月12日に、昨年も出た足摺駅伝に出場せんといかんなっちょりまして、こぢゃんと練習不足の今年はそろそろネジを巻いていかんとオオゴトながです。とは言え、昨年の夏からのまったりのんびりジョギングペースから立ち直っておりませず、スピード練習に行き着きません。メッタメッタ。
ここは、築屋敷(つきやしき)。月の瀬橋と柳原橋の間の土手の上でございます。土手の南が築屋敷で、北側は南奉公人町。小さな道路が土手の上にありまして、なかなかの風情です。
ひまわり太郎が左手を乗せちゅう標柱、これは何度かご紹介した「水丁場」の標柱。「従是東六ノ丁場」と刻まれた古い古い標柱。藩政期初期、城下町をつくりあげる際に、水防組織のグループ分けの境界として建てられ、変遷を経て今に至っちょります。山内氏が土佐を治めるようになって、初期の頃の最重要課題は治水と長宗我部の残党対策。「水丁場」の水防組織は、最初は山内家の家臣で構成されちょったそうです。理由は簡単。
大水が出た際、長宗我部の残党がわざと堤防を決壊させて反乱を起こすのを防止する為。また、大水の際でなくても、長宗我部に心を寄せる勢力が民衆を煽動して反乱を起こす可能性もあった訳で、その場合も、この区割りで鎮圧体勢を組んじょったとも考えられます。未明の築屋敷で山内時代初期に思いを馳せてみました。