純信お馬の「その後」、と河田小龍さんと入交家〔1011〕2006/01/21
2006年1月21日(土)曇ったり晴れたり
今朝は高知へモンちょります。雪が降るかもしれんという天気予報でしたが、今朝は5℃のあたたかい朝。降りそうな気配はないですね。
ここはご存知はりまや橋交差点の少し東、土佐橋の袂。ここのすぐ南に、何度もにっこりでご紹介の河田小龍さんの生家がありました。幕末から明治初期に活躍した文人画家、というより、超一級の知識人ですな。ジョン万次郎さんから世界の情勢を聞いて本にしたり、20歳の坂本龍馬にその国際情勢を教えて世界へ羽ばたくきっかけを作ったり、多くの海援隊士に社会情勢を講義したりした人物。近年できましたその記念碑が写真左端に写っちょります。
向こうに、取り壊し準備が進む西武百貨店やはりまや橋交差点が見えますな。
はりまや橋と言えば、こないだのにっこりで、純信お馬の「その後」の話をしました。土佐から放逐された純信さん、一時期愛媛の川之江に居ったことを書きましたが、その時期に、何と河田小龍さんが純信さんを尋ねて行っちゅうそうです。高知の城下のインテリゲンチャー、知識階級として、親しい間柄やったようですね。で、純信さんのお馬さんに対する真摯で熱い想いを綴った素晴らしい名文のお手紙を小龍さんは預かって、高知へ戻ったのであります。しかし、お馬さんはもう高知には居りません。渡す事ができなかったその手紙は、その後、幾多の変遷を経て、高知商工会議所の会頭などを歴任した名士「入交太蔵(いりまじりたぞう)」さんの手に渡ったそうです(ちなみに、太蔵さんは、ひまわり乳業が「土佐乳業」という法人として組織された昭和21年、最初の取締役として名を連ねて下さっちょります)。素晴らしい文章だったそうで、額に入れられて入交家で保管されちょりましたが、残念な事に空襲で焼けてしもうたそうですね。
高知の小さな社会は、様々なことが絡み合い、関連し合いながら複雑に彩られていくのでありました。