はりまや橋、純信お馬の「その後」、お菓子の浜幸様〔1009〕2006/01/19
2006年1月19日(木)晴れ!
今朝もぬくい高知市内です。ここははりまや橋交差点。そこにあったホテルの建物も、取り壊しがだいぶ進みましたね。西武百貨店跡も、間もなく建物の取り壊しが始まりそうです。
さて、はりまや橋と言えばよさこい節。純信お馬の悲恋の物語で、2003年10月21日のにっこりを始めとして、何度かご紹介しました。今日のお話は「その後」。
お馬さんは、須崎以西へ追放になり、須崎に住みました。大工さんと結婚して4人の子供をもうけます。明治中期、新都建設で大工が足らない東京へ一家で移住し、60歳くらいでお亡くなりになったそうです。
どうして20も歳の違う坊さんについて行ってかけおちまでしたのか?と聞かれ、「私はあのお坊様が好きでございます」と、素晴らしいお返事をしちょります。明治の時代に東京で高知県人会があり、あるヒトが郷土を思い出して「よさこい」をやり始めたところ、隣のヒトに袖をつかまれて制止させられたそうです。不思議に思って聞くと、その会場に来ちゅうタバコ屋のおばあちゃんがお馬さん本人とのこと。びっくりしたそうですね。その場では「よさこい」はタブーやった訳です。
純信の方は、愛媛川之江の名士に世話になって寺子屋などをやりよりましたが、行方が途絶え、昭和の後半くらいまではその後の純信がどうなったかは謎のままでした。ところが、写真中央部のお菓子屋さん「浜幸」様の先々代の社長様が、昔、松山のお菓子の品評会の帰り、愛媛の久万の町で捻挫して3日程入院した病院で、純信のひ孫の方と偶然出会ったという話を思い出し、友人の高知新聞社の史家に話をし、関係者が調査しまくりまして、純信は愛媛県の山の中、美川村でお坊さんになり、高知へ帰ることなく、平穏に生涯を閉じたことが判明しました。運命の糸が織りなすドラマは、不思議に絡み合うちょります。純信が暮らした集落では、今でも「よさこい」は歌われんことになっちゅうそうです。