野中廃寺跡、国指定史跡へ〔8284〕2025/12/20
2025年12月20日(土)晴れ
何度も書くけど、今日の高知県地方は軒並み20℃超え。クリスマス前にこの気温はすごいね。明日朝の最低気温も12℃超え。やはりなんかおかしいこの気候。
さて。こないだ、大豊町の定福寺さんや豊楽寺さん、五台山の竹林寺さんが行基上人によって建立された伝説のこと書きました。行基さんの事績で一番有名なのは奈良、東大寺大仏の造立でしょうか。聖武天皇の仏教保護政策の中で東大寺がつくられたのは、8世紀のこと。行基さんは大仏開眼を見る事なく81歳で入滅してるけど、その社会事業、公共事業への功績が、今でも全国各地で伝えられているのはご承知の通り。
聖武天皇は741年に「国分寺建立の詔」を発布。全国に国分寺、国分尼寺を建立させる詔勅を発する。そして行基上人が刻んだという千住観音菩薩を御本尊として開かれたのが、土佐国分寺とされています。律令制度による国家建設、国土建設がかなり進んでいた時代。
土佐国分寺はここですが、この界隈にも同時期にお寺が造立されたことは、出土した礎石などからわかっていました。「野中廃寺跡」と名付けられたその史跡は、宅地開発に際しての発掘調査が2020年から実施され、その広大な伽藍配置が明らかになっていました。国分寺に匹敵するような規模の寺院が、国分寺から南のこの場所に建てられた、という事実は何を意味しているのか。
国分寺は国家事業で、それに土佐の地元が呼応した、と考えるのが自然なんでしょうかね。
なにより。同時代、野中廃寺跡のすぐ南西に幾度か書いてきた若宮ノ東遺跡に大きな評衙があったことがわかってきており、国分寺と評衙を結ぶ直線の広い官道も建設されていたようで、そしてその官道の方向角度に一致する香長条里が形成されていっています。当時の都市計画の様相が明らかになってきた、と言うても過言ではない、そんな気がする冬の朝。
その野中廃寺跡が、この度、国史跡に指定されるよう答申されたという記事。南国市では4例目の国指定史跡。
当時の寺院として伽藍配置が明らかになっている例は少なく、その辺りが評価された模様やけど、いいことだと思います。
ウィキには「国分寺」の項目に「国分寺建設地の選定」という項がありました。土佐国分寺と野中廃寺は、まさにこの条件に合致。以前、国府、国分寺界隈の土地条件について考察したことあるので、ぜひお読みください。
今回、文部科学省に対して答申を出したのは国の文化審議会。文化政策というものは、もちろん幅広い意見や為政者の意図とかも反映されるけど、そもそも高い専門性も必要であり、すごい勢いで進んでいく社会の中で、貴重な経験や高い専門的知見をもとに考えられ、実行されていくべきものだ、というのを実感してます。こういうものを「拙速」に判断、決着をつけることのないようにしてもらいたいものだ、などと思う朝。
