謝肉祭〔8238〕2025/11/04
2025年11月4日(火)晴れ
そんな訳で行ってました。大川村の「謝肉祭」。人生初「謝肉祭」。去年は大雨の影響で中心になったので、2年分の思いを込めて行って参りました。今年のチケットも発売1時間で完売とのことやけど、行ってみて、その人気の理由がよくわかります。
あの、半世紀前に高校生だった僕がヒッチハイクで行った場所。坑道入り口近くの、講堂みたいなのがあった場所の、上。そこに、村人口の4倍を超える1500人が集まり、大川村の黒牛やはちきん地鶏のバーベキューで楽しんだのでした。なんと今年で42回目。2025年8月31日現在の大川村の人口は、349人。18年前には「500人の村」だった大川村も、今は349人。
今年の「謝肉祭」は例年になく寒かったとのこと。いや、お日様はほんの少しだけで、冷たい風が時折吹き荒ぶ会場やったけど、1500人の熱気、バーベキューの熱気が優っておりました。土佐町のお酒「桂月」は飲み放題。なので、しこたま頂いてきました。小さな竹でできたお猪口は、網の上に乗せても焼けんので、燗酒にして頂戴しました。おいしかったです。
ステージの盛り上がりもなかなかのもので、生バンドの昭和歌謡で踊りまくる人々が密集状態。なかなかにカオスな状況は、僕は好きです。満喫いたしました。これで6000円は、安い。発売1時間で完売も宜なるかな。
村の青年団が1983年に始めたという「謝肉祭」。そうか。僕が初めてヒッチハイクで廃坑のゴーストタウンを訪れたのは1978年か1979年。その5年後には始まっておった訳だ。僕が行った際には、まだ、鉱山跡がそのまんま残ってました。講堂の黒板にはその日の採掘量とかがチョークで書き込まれたままで。そして町も、ゴーストタウンとしてそのまま残っていた、1970年代。
その後、鉱山施設は取り壊されて、トマトの水耕栽培が始められたと記憶します。「謝肉祭」が始まったのは、恐らくはそんな時代。今、トマトの水耕栽培をやってた場所は「はちきん地鶏」の鶏舎になってます。鉱山の講堂というかメインの建物がたっていたのは、現在の鶏舎の辺りでしょうか。今は昔。
それにしても「謝肉祭」。知人だらけでした。県庁の偉いさん、議員さんも。みんな、今までこんな楽しいところへ来てたのね。知りませんでした。
僕らは、11自前の開始から15時過ぎの片付け時間まで、ずうっと居座って食べて飲んで。半世紀前のあの場所で。貴重な時間を過ごさせていただきました。また来年も行かなくっちゃ。
