宝永町の由来と地震〔821〕2005/07/15
2005年7月15日(金)晴れ
今朝もきれいに晴れた高知です。
出張に出掛けるため、家の近くの宝永町のバス停で空港バスを待ちよります。ここは、電車通りと高知インターにつながる南北の大きな道路が交差する交通の要衝。この南北の道路が開通したのは数年前で、以前は、狭い道を通って一文橋を渡りよりました。隔世の感がありますな。
宝永町の町名に由来は、ひまわり太郎の怪しい記憶によれば、ここに宝永堤があったから。宝永堤というのは、宝永地震の際に建設された大きな堤やったと覚えちょります。間違うちょったら指摘してつかあさい。
宝永地震というのは、ご存知のとおり、南海地震と東南海地震が同時に発生した、こぢゃんと規模の大きかった地震で、日本列島に甚大な被害をもたらしました。ここ高知も、津波等で、めちゃめちゃにやられたそうです。近世から現代までで最悪の地震が宝永の地震。種崎地区では、一軒の家も残さず流されてしもうたという記録が残っちょりますね。高知の城下も、浦戸湾から上ってきた津波でぼったりしょと浸水してしまいました。
そこで、浦戸湾に波がきても大丈夫なようにと建設されたのが「宝永堤」やったのではなかったでしょうか。
今、高知は南海地震への防災体制確立が急がれよります。戦後すぐに発生した昭和の南海地震は、当時浦戸に住みよったひまわり太郎の母親の話でもかなり恐い地震やったそうですが、南海地震のなかでは最もエネルギーの弱い部類の地震やったそうです。
今、宝永大地震級のやつが襲ってきたら、とんでもない被害が出てしまうことが予想されよります。防災意識の向上が、まずもっての急務ですね。
宝永町のバス停を眺めながら色々と考えてしまいました。