二万七千石用水取入口〔8194〕2025/09/21

2025年9月21日(日)曇り
越中式というと、越中ふんどしがすぐに思い浮かびます。褌と言えば越中。しかし、越中褌が全国に普及したのって、明治末期頃、徴兵された兵士に軍隊から支給されたのが要因なんだそうね。僕が小学生の頃、友人のマー坊は、パンツではなくて褌締めてました。
そして、庄川で発展したのが越中式の材木流送技術。川を堰き止めて、伐採した木材を貯めておき、鉄砲堰を利用して一気に流送する技術。
これで、飛騨や五箇山の木材を庄川で運び出していた、ということ。その技術者は、北海道などの林業が盛んな地域へ出稼ぎに行ってたとウィキに書いてます。どうやら藩政期に確立されていった技術なんでしょう。どの辺が越中式なのかは、よくわからない。
土佐でも、昔から材木の輸送にこの方式が利用されてたようやけど、土佐式流送技術と越中式って違うんでしょうかね。
そんな訳で庄川。今朝は、平成の大合併で砺波市に吸収された元庄川町の南端に来てます。いい温泉でした。地図で見ると、「二万七千石用水取入口跡」との表示。で、この一帯が「庄川水記念公園」でした。
川の流れの自然立地を利用し、ここに灌漑用水の堰がつくられたのは、鎌倉時代とも言うそう。その灌漑用水は、庄川左岸域の田畑を潤し、豊かな平野を形成していったのでしょうか。
戦国期、北陸地方って上杉から朝倉から、有力な大名が出て来たりしたけど、どうやら豊かな農業生産力が、そういった繁栄の源だった気がします。人口も、かなり多かったみたい。
写真はここ。現在、この左手の小さな方の流れの先に堰堤があります。なんか、よくわからない。昭和になってからこの下流に合口ダムができるまで、ここから用水が分岐してた訳で、だとすると、その堰は、向こう側の庄川本流に構築され、ここから別れて砺波平野を潤す用水になってたのでありましょう。
土佐では、藩政期初期の野中兼山先生による灌漑用水工事が有名やけど、それ以前の灌漑については、あまり触れられてきてません。
灌漑用水による農地開発、ということで言えば、こっちの方が進んでたんでしょうかね。越中式の灌漑用水。
ところで富山駅前。すごい。再開発のすさまじさ。そして昨日はライトレールにも乗ってきました。以前、富山のライトレールの関係者が「負担でも事業者の救済でもない」と語っていた話、書きました。大成功のLRT。高知もぜひぜひ参考にしたいねー。