街に音楽が〔8187〕2025/09/14

2025年9月14日(日)晴れ!
晴れて良かった。暑いけど。今日は高知街ラ・ラ・ラ音楽祭。
先日、よさこいの音楽のこと書いてて、ラ・ラ・ラを始めた時の想い、思い出しました。そうだった。そんな思いだった。
僕がバンドマンとしてよさこいの音楽に関わったのは1990年代。その頃は生バンドも多くて、やってる音楽も多種多様、各チームのチームカラーも多種多様。そんな中ではあったけど、北海道の「よさこいソーラン」が注目され、高知のよさこいも観光客誘致に力点を置いた派手な演出と創作ダンスコンクールにような雰囲気が必要だ、みたいな空気感が醸成されてきていた、そんな時代でもありました。
そして、「よさこいソーラン」のスタイルを逆輸入したようなチームが増え、衣装も派手になり、お金がどんどん掛かるようになっていった中、生バンドは姿を消していく。
音楽は業者に発注した「打ち込み」になり、曲を作る人たちは、よさこいソーランのような音楽をモデルとして、同じような構成の同じような音楽を量産し始める。それが1990年代に起きてきた現象だった。少なくとも個人的にはそんな認識でした。
1970年代、よさこいに生バンドとロックを持ち込み、革命をもたらしたのは青果の堀田チームである、という話は、このにっこりでも幾度も書いてきました。あまり認知されていない、よさこいの歴史。その青果の堀田の堀田昌一郎さんは、僕より7歳上の先輩やけど、街づくりなどを通してとても仲良くさせて頂いておりました。そして、夜な夜な二人で飲みに行っては、上記のようなよさこいについでグダグダと愚痴を言うたりしてたんですね。
そんな頃。よさこい高知国体を翌年に控えた高知市の職員さんが、高知の前年に国体をやってた宮城県へ視察に行き、そこで開催されていた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」のパンフレットを持ち帰って来るんですね。それに強烈に反応したのが、堀田さん。
「文ちゃん、これで。これをやろう。よさこいみたいに商業化されてない、演ってる本人たちが一番楽しめる、そんなお祭りを僕らあの手に取り戻そう!」
その一言が、「高知街ラ・ラ・ラ音楽祭」のはじまり。
自分たちが楽しむ中で、街が元気になり、街を歩く人たちに自然と笑顔が溢れる。行政には関わってもらわない。出演料と広告協賛だけで資金を賄い、自分たちがやりたいように、やる。楽しむ。派手ではないけど、柔らかくて温かくて素敵な空気が流れる音楽祭。
さあ、準備万端。僕も11:15から出演したりして、一日を楽しみますね。