慶長伏見地震と石垣〔8178〕2025/09/05

2025年9月5日(金)雨のち晴れ
台風、どうでしたでしょうか。昨夜はまあまあ降ったけど、今朝には止んでて、そして今から晴れて、最高気温は35℃近くになる予報。これは蒸せる。熱中症には気を付けて、予防に牛乳飲みましょう。
9月5日。1596年9月5日(文禄五年閏七月十三日)、慶長伏見地震が発生してます。429年前の、今日。元号ではまだ文禄やけど、この年、慶長伊予地震とか慶長豊後地震とか、恐らくは慶長伏見地震と関連する地震が多発したとこで、文禄から慶長に改元されてます。
慶長伏見地震では、秀吉が築造中で、完成間近であった指月伏見城が倒壊、城内だけでも600人が圧死したと伝えられる大惨事となってます。その指月伏見城はこの辺。断層にも近いねー。ウィキによりますれば、有馬ー高槻断層帯及び六甲・淡路島断層帯が震源とのこと。阪神淡路大震災の地震は、慶長伏見地震を発生させた六甲・淡路島断層帯の、地下深くの「滑り残し」がズレた地震、と言う説もあるんだそう。なるほど。
指月伏見城の石垣、恐らくは花崗岩。割石面を見せるように加工された、外見が美しくなるように積まれたものだったと想像されます。しかし、慶長伏見地震では、大きな被害を受けた、らしい。その後、秀吉は少し離れた伏見山(木幡山)に改めて伏見城を築く訳やけど、その際の石垣には、裏込めに粘板岩を使用するなど、耐震への工夫が施されているといいます。学習した訳やね。
そこで浦戸城。長宗我部元親さんが、秀吉の意向も汲んで、浦戸に城を築いたのは天正から慶長にかけての時期。その前、1586年(天正十四年)に、大高坂山に一旦お城を築いてます。その石積みは、小ぶりなチャートの野面積み。ところが、1592年(天正二十年)から1596年(文禄五年)の間に築かれた浦戸城の石垣は、砂岩が中心の、正面の割面が平らになった石積み。
高知の城郭研究の第一人者、松田直則先生は、その時期、秀吉政権の力が強大で、秀吉政権から派件された石垣職人が石垣を積んだ、と考えておられます。平面的な外観を重視した、洒落た積み方。
ところが、慶長伏見地震で、秀吉自慢の指月伏見城は倒壊してしまう。石積みも崩れたでしょう。
浦戸城では、その地震の後に構築された石垣も、残っています。それは、チャート主体で石灰岩の混じる、高知城の石垣にも通じる石積み。
つまり、浦戸城築城の際には、秀吉に忖度し、秀吉好みの城を築こうとしたけど、地震に弱いことが判明し、やっぱし、強度重視の石垣に変えていった、ということが想像できるのでありますね。
写真は、土佐では初めての天守台の前にあった築山の石積みを、国民宿舎建設医の際に移築したもの。砂岩主体で、割石面を見せる積み方。秀吉忖度期の石垣でしょうか。
9月5日。愛読書「鉄道手帳」によると、1974年、今から51年前の今日、新幹線で食堂者営業が開始されていますね。
僕には、ささやかな夢があります。こういった重要な城郭や山のてっぺんに鬱蒼と茂った樹木を伐採し、かつての景観を復活させること。そして、新幹線などに食堂車が復活すること。
I have a dream.