泪橋をどっちから渡る〔8091〕2025/06/10

2025年6月10日(火)小雨
梅雨入りした高知へ戻りました。今朝もしとしと涙雨。
我らが三省堂「新明解国語辞典」では、「涙雨」について「ほんの少しだけ降る雨」「葬式などの悲しい時に降る雨」の2種類が説明されてました。今朝の雨は、もちろん前者の「涙雨」。
「涙(泪)」は、「感極まったり外部からの刺激を受けたりした時、目からあふれ出る透明な液体」だそう。
「涙」と「泪」。
昨日の写真の交差点は「泪橋」。なんか、感覚としては「泪」の方が悲しそうにみえる気もするけど、個人の感想です。昨日の「泪橋」も「涙橋」と書かれることもあるそうで、まあ、どっちも悲しい「なみだ」は「なみだ」。
「あしたのジョー」の丹下拳闘クラブは、泪橋の下に小屋掛けした粗末なものでした。泪橋を渡るとドヤ街があるという設定。細かい話は忘れたけど、「いつか泪橋を逆に渡って成功を掴むんだ」みたいなセリフがあったと思って調べてみたら、ありました。これ。
実際の「泪橋」は、そこを東西に流れていた「思川」に架かっていた橋。その橋を北へ渡ると小塚原(こづかっぱら)の処刑場。安政の大獄で吉田松陰や橋本左内が処刑された場所。
小塚原へ向かう罪人が、この橋で今生の別れに泪した、ということで、いつしか「涙橋」と呼ばれるようになったとのこと。その時代は、橋を南から北へ渡ることで涙した訳だ。
では、「あしたのジョー」ではどうなっていたのか。丹下段平によると「人生にやぶれ生活につかれはててこのドヤ街に流れてき」た人間が「なみだでわたる悲しい橋」。と、すると、現実のドヤ街は泪橋の南にあったので、江戸時代とは逆に北から南へ渡ることで泪した橋、ということになります。
矢吹ジョーの時代は、南千住駅から歩き、泪橋を南へ渡ってドヤ街へ。そういうことなんでしょうかね。
ちなみに、古い航空写真を見ても、更に明治期の地図を見ても、「思川」や「泪橋」らしきものは、見当たらない。つまり、明治のかなり早い時期には思川は暗渠になり、泪橋もなくなっていた、と推察されます。そして地名だけ残り、明日のジョーの舞台になったのでした。
今もドヤは残っているけど、外国人観光客も多くなり、随分と様変わりした山谷。今はもう、泪橋の交差点を「なみだでわたる」人も、いなくなりました。