国境近く、純信の想い〔8059〕2025/05/09

2025年5月9日(金)小雨
今朝は、用事があって松山へ。早朝会社を出て時間があったので、大好きな国道494号線経由。伊野から仁淀川沿いを遡上し、下八川から大峠トンネルを通って池川へ。仁淀川町池川から久万高原町へと抜ける、旧松山街道。このルート、今では通る車も少ない、狭いクネクネの酷道やけど、かつては土佐と伊予を結ぶ幹線路のひとつ。なので、道沿いにはかつて栄えたであろう集落の跡がたくさん見受けられます。
ここは愛媛県。今は久万高原町やけど、かつては美川村の、東川という集落。この街道で、高知から愛媛へと入って最初の集落。高知県側は狭くてクネクネの酷道494号やけど、愛媛県側の、この東川界隈まで来ると道も広くなり、高知とは全然違う開けた風景が広がります。
その東川の国道沿いに、このような説明版がひっそりと立っています。
土佐民謡「ヨサコイ節」の主人公
僧純信の墓所
そう。あの、幕末土佐で大いに話題となった純信お馬の物語、よさこい節に謳われた逸話の主人公、純信の墓所が、ここにあります。ここで純信が暮らし、終焉を迎えた話は、以前も書きました。それが判明するきっかけとなった、お菓子の「浜幸」さんの偶然の出会いがもたらした奇跡。そのきっかけから、土佐市の郷土史家矢野さんが調査し、ここに墓所があることが確定し、この説明版が立てられることになったのでした。昭和61年のこと。
上にも書いたように、ここは土佐と伊予の国境の集落。伊予側の最初の集落。この地図を見れば、藩政期当時の街道も想像できますよね。土佐側、用居の集落から瓜生野へ。瓜生野から斜面の西進し、東川へ。瓜生野と東川の距離は、約7km。当時の徒歩間隔にすれば、すぐ近所やね。
純信お馬が駆け落ち事件を起こしたのは、1855年(安政2年)で、純信満35歳、お馬満15歳。やるねー、なかなか。で、純信は国外追放になり、川之江で寺子屋の師匠さんをやったりしました。1年半で川之江からいなくなって消息不明。で、いつの頃にか、ここ東川へとやってきました。明治初年には、ここで暮らしていたことは間違いないようです。
もし、川之江からすぐに東川へやって来ていたとすれば、明治までの10年間も、ここで暮らしたことになります。純信の刑は「国外追放」。土佐へは入国できない。
土佐側の最初の集落、瓜生野までたった7kmの、ここ東川で暮らした純信には、土佐に対する思いがあったのでしょうか。それは、今となっては誰にもわからない。
しかし明治になり、藩政期の刑罰が無となった後も、純信はここで、明治21年に亡くなるまで平和に暮らしたと言います。
土佐への望郷の念は、ここで新しい家族ができ、東川の集落に溶け込むことで薄れていったのかも、知れません。純信がどんな思いでここで暮らし、どんな思いで終焉を迎えたのか。今となっては、誰にもわかりません。