九反田地蔵尊と石田三成〔80〕2003/07/05
2003年7月5日(土)曇り
西暦1600年(慶長5年)、天下分けめの「関ヶ原の戦い」が行われました。東軍の総大将は徳川家康、西軍はご存じ石田三成でした。そして、戦は東軍の勝利に終わり、石田三成をはじめとする西軍の武将は敗死することとなります。
三成には小さい女の子がいました。関ヶ原の後この幼女が、乳母に抱かれて土佐へ逃げてきます。ここにあった「称名寺」の住職をたよってのことです。
その幼女は、腫物を病んで7歳で亡くなりました。
時は流れて文政(1820年頃)の時代、称名寺跡に建てられていた米蔵が鳴動するので床下を掘ってみたところ、首の無い地蔵尊と「天周妙終尼 慶長十八年六月二十二日」と書かれた碑が出て来たのです。天周妙終尼とは三成の幼女のことですので、慌ててこの地蔵と碑を「九反田地蔵尊」として祀りました。
今でも腫物除けの守り神として信仰を集めています。
ご覧の様な小さな祠ですが、お線香の自動販売機までありまして、綺麗に整備されています。手前の新しい灯籠には、俳優の仲代達也さんから寄贈されたものである旨書かれています。
土佐の国と石田三成の意外な結びつきや、熱心な信仰を集める地蔵尊の存在にあらためて驚きました。いやいやびっくり。