2月26日の朝〔7987〕2025/02/26

2025年2月26日(水)晴れ
このところの冷え込みに比べたら少し暖かい朝。さあ、春だ。
ここは香美市香北町。美良布の町の少し手前、物部川北岸。ここに、マレーの虎と謳われた山下奉文大将生誕地があります。生まれたのはここやけど、2歳のときに大杉村に引っ越してます。
香北町は、やなせたかし先生の実家があったこともあり、朝ドラ「あんぱん」で盛り上がってますねー。昨日も香美市の職員の方が来社され、少し打合せをさせて頂きました。僕も、少し関わって頑張ります。
で、今朝は同じ香北町出身の山下奉文将軍の話。山下将軍は、戦前日本陸軍における統制派、皇道派の対立の中で皇道派に属しておりました。そんな対立構造の中で起きたのが、2.26事件。
1936年(昭和11年)2月26日未明、皇道派の陸軍将校らによって引き起こされたクーデター未遂事件は、完全鎮圧まで4日ほどかかっています。
陸軍上層部では、決起軍に同情的な人たちも多く、雰囲気としては決起軍有利みたいな感じで始まったみたいですが、特に、昭和天皇が当初から決起軍を「反乱軍」と規定し、強い意志と発言で対処したこともあって、鎮圧に向かった2.26事件。
いろんな思惑が錯綜して複雑な経過を辿ったのち、鎮圧に向かう訳やけど、その際、反乱部隊将校が自決することになる。首謀者のひとり栗原中尉が、自決の場に天皇の勅使を派遣してもらうことを提案し、侍従武官長からその旨の奏上を受けた昭和天皇は、「自決スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以ッテノ外ナリ」と答えている。決然として、見事。
もう、この昭和11年の時点で、軍部の社会認識が一般常識とかけはなれ始めていたことがよくわかる、エピソード。「ルール違反やけど、気持ちはわかる」という、最近もどっかの党首が言うてたような空気感が、その後の歴史を作っていったとも言えると思う。
当日の東京のお天気を見てみよう。映画とかでは、2.26事件と言えば雪の中。確かに、この気象データを見ると、雪だ。最低気温は-2.2度。最高気温はなんと、0.3度。平均気温-1.3度という極寒の中、このクーデターが起きたのでした。当日の降水量は6.7mm。降雪の場合、1mmで1cmの積雪と言われるので、都内でも6~7cmの積雪だったでしょうか。
鎮圧される2月29日までの期間、最高気温は4.4度。みんな、寒かったねー。
山下奉文少将(当時)は皇道派で、決起軍に同情的であったと見做され、その後、昭和天皇からは疎まれてしまったと言います。軍政の中心からは離され、前線での指揮官として終戦まで過ごすことになった、山下将軍。2.26事件は、いろんな人々の運命を翻弄していきました。
今朝の高知新聞コラム「小社会」に、2.26事件で殺された当時の教育総監、渡辺錠太郎陸軍大将の娘さんで、岡山市のノートルダム清心女子大学学長をつとめられた渡辺和子さんのことが書かれていました。なかなかいいコラムでしたね。
父が殺されるのを物陰から見ていた和子さん。事件から50年後に、自宅を襲撃した兵士の家族と面会した和子さんが、こんな言葉を語ったそうです。
「相手を知り、理解しようとしなければ、いつまでたっても憎しみは消えません」