ひろめ、弘人〔7869〕2024/10/31
2024年10月31日(木)晴れ
この週末の大川村「謝肉祭」へは、酪農家さんや酪農行政関係者の方と行く予定にしてました。早々に中止が決定、ということで残念至極。まだ行ったことなくて、今回が初めてのエントリーだったのに。まあ、仕方ないですねー。
実は、その「謝肉祭」へ行く筈だったメンバーの多くと、昨夜も飲んでました。Jミルクからの委託研究で高知へ調査に入られている大学の先生と一緒に。なんか、しょっちゅう飲んでばかりみたいやけど、飲んでばかりです。ただ、幾度も書いてきたように、この、生産者と行政とメーカーとの濃密な関係性が、高知の畜産を支えていると言っても過言ではない、と思っておったりする訳で、ただ飲みたいから飲んでいるだけでもない訳で、飲みたいから飲んでいる部分もあるけど、楽しい夜でした。
帯屋町2丁目の居酒屋で飲んだ後は、いつもの「ひろめ」。東京と大阪から来られた大学の先生もお気に入りの、ひろめ。高知の雰囲気、文化を堪能いただいたのは言うまでもありません。
今日は、「ひろめ市場」の名前の元となった深尾弘人さんについて、書いてみようと思います。深尾弘人さん。ふかおひろめさん。
幕末、界隈が土佐藩執政職であった深尾弘人さんの広大な屋敷だったので、そのお屋敷が払い下げられて民家が密集して立ち並ぶようになってから、その一角を「弘人屋敷(ひろめやしき)」と呼ぶようになり、バブル期に地上げが進んでいる途中でバブルが弾けて、宙に浮いた土地で「仮に」ということで始まったのが「ひろめ市場」。「弘人屋敷」と呼ばれてたので、ひろめ市場。
深尾家は、本家が佐川深尾家。山内一豊入国から明治維新までを通じて土佐藩家老職を務めた佐川深尾家は、山内家臣の中での最も位の高い家系を維持しました。その初代、深尾和泉重良の息子、主水重忠が分家したのが南宗深尾家。いわゆる高知深尾家。この家系も代々奉行職を務めており、その9代目が弘人蕃顕さん。ひろめしげあきさん。
幕末、吉田東洋を支持して土佐藩の方向性を決めていったのも、弘人さん。吉田東洋が暗殺された後、一時免職となるも明治元年に奉行職に復職、執政、大参事となって明治維新。なかなかの人物であったようです。
なかなかの人物やったけど、まさか、150年後に自分の名前が高知名物の飲食店街に冠されらることになろうとは、思いもよらんかったでしょうねー。今や深尾家代々の中でも最も有名かも知れない、深尾弘人さん。
それにしても飲んだ飲んだ。こうやって高知の酪農家、行政、メーカーの絆が深まっていくのでした。