伊予鉄森松線の痕跡が、ここに〔7699〕2024/05/14
2024年5月14日(火)晴れ!
そんな訳で、ここは松山市。昨日の夕刻、車でやって来ました。昨夜は大街道で気分よく飲み、そして今朝は早朝RUN。大街道も飲食の店、増えたねー。高知の帯屋町もそうやけど、都市の中心商店街も、徐々に飲食が幅を効かせるようになってきた昨今。
さて。今朝走ったのは旧国道33号線方面。
現在の国道33号線は、県庁前から東へ進み、勝山の交差点を右折して南下、11号線と別かれて右へ曲り、天山交差点で再び左折して南下するルート。広い道路やね。
そのルートになる以前は、この立花界隈を通るルートが33号線でした。昔、天山にひまわり乳業松山営業所があった半世紀前は、立花の道路が朝晩渋滞して大変だったと聞きます。2車線の狭い道路ですきんね。そして、ひまわり乳業松山営業所ができる前には、伊予鉄立花駅から分岐した「森松線」という路線が、森松まで延びていたことをご存知でしょうか。
伊予鉄のウィキを見ると、たくさんの路線が、結構複雑な経緯をたどってできあがっていった歴史がよくわかります。明治21年に松山と三津浜の間で開業し、道後鉄道や松山電気軌道と合併したりしながら今に至る、伊予鉄道。最初は軌道幅762mmの軽便鉄道で、途中1067mmの現在の軌道になってます。
最初はもちろん蒸気機関車。初めて電車が走ったのは明治44年なので、電車としては土佐電鉄の方が早いのでした。
夏目漱石が「坊ちゃん」の中で「マッチ箱のような汽車」と表現したのは軌道幅762mmの軽便鉄道のことで、まさしくマッチ箱みたいだったことでしょう。
で、立花駅から森松駅までの森松線が全通したのは明治29年。すごいね。で、森松線が廃止されたのが1965年(昭和40年)。蒸気機関車からディーゼル化されたけど、最後まで電化されなかったのが森松線。森松駅の跡地は、今も、そこが駅だったことを感じさせてくれます。
写真は、立花駅の南東。スマホに表示されているのは1963年頃の航空写真で、青丸が現在地。その左上に立花駅が見え、そこからカーブを描いて分岐してくる森松線がはっきりと写っています。その路線の跡が、こんな感じで細長い公園として残っているのでした。向こうの塀に古い枕木が立てかけてあるけど、あれ、森松線で使ってた枕木なんでしょうかね。
森松線は国道33号線に沿って走っており、今は拡幅された33号線と同化してしまっています。ここに、わずかに、その痕跡を留める伊予鉄森松線。