帰全山、土葬〔7687〕2024/05/02
2024年5月2日(木)晴れ!
晴れました。今日から5日くらいまでは晴れの予報。観光客さん、多いでしょうねー。賑やかなGWになりそう。
ここは本山。仕事です。途中立ち寄った、モンベルアウトドアヴィレッジのある帰全山にも、多くの観光客さんが訪れていました。
そのモンベルアウトドアヴィレッジの南に「兼山廟」があり、その鳥居脇に立つのが、野中兼山像。明晰で冷徹なテクノクラート、といった雰囲気を見事に醸し出している、像。
この、蛇行する吉野川に挟まれた土地を帰全山と名付けたのも、野中兼山。慶安四年(1651年)に実母直信院が亡くなり、父の代からの知行地であった本山のこの地に埋葬しました。その際、土佐の葬法の風習を破って、本格的な儒葬、つまり儒教の教えに従った礼式で、執行しました。で、この地の山号の撰を、土佐の儒学者山崎闇斎に依頼。その撰文に「父母全而生之子 全而帰之」、つまり「父母全うしてこれを生み、子全うしてこれに帰す」とあり、帰全山と名付けられた、とのこと。
その儒葬は、それはそれは大きなもので、「衣衾棺槨一切を儒教の制に従って整え」、高知から知行地の本山までの山道七里を喪服を着して歩いてきたのでした。お墓も、儒教に則った立派なもの。作業に要した日時は足掛け3ヶ月、人夫は1000人。すごいね。兼山先生の力も、すごい。
ここで、なかなかの議論を巻き起こしている、野中兼山さん。山崎闇斎によれば、儒学の倫理として水葬、林葬、火葬は到底認められない。土葬ということになるけどただ埋葬するだけでは礼を失するので、「良くその地を選んで工事をなし、五患を防いで衣衾棺槨をも整えて久遠の不滅を期す」べく、礼を尽くした土葬であるべきだ、と主張。それに従い、土佐の風習であった火葬ではなくて土葬で埋葬した、とのこと。これが幕府にまで物議を醸し、結局、儒教の礼に則ったもとということで、幕府にも認められたと言います。
その後、土佐では土葬が一般的になっていったのでした。野中兼山の治績、業績というものは各方面に及んでたくさんあるけど、「土佐藩土葬の法」を確立したのも兼山先生だった、という話はあまり知られてないですよね。
野中兼山。この逸話からも、その一徹で自信満々で峻厳な性格を想像できます。
そんな、帰全山。この奥に廟があり、一帯は公園。もう少ししたら、シャクナゲが咲き誇る、帰全山。まさか、アウトドアヴィレッジができるとは、兼山先生も思いもよらんかったでしょう。今日の話は、高知新聞社発行、松岡司先生の「土佐藩家老物語」から、纏めさせて頂きました。