宿毛、地震、清七、婉〔7681〕2024/04/26
2024年4月26日(金)曇り
今日は、こないだの地震の後、初めて宿毛にやって来てます。あちこちの民家では地震で損傷した屋根にブルーシートが掛けられていたりして、その凄まじさを感じさせてくれます。地元の食品スーパーさんで、S社長さんのお話を伺いましたが、なかなか大変だったとのこと。
売り場の商品が崩れ、配管が損傷し、水が濁ったりしたそうです。それでも、地震後にお店に出てきて復旧を急ぎ、朝9時には開店されたとのこと。すごいですね。テレビのニュースで、誰かが撮影した地震後の店内の様子が流れてたのを見て驚いたと言うてました。心よりお見舞い申し上げます。
まだまだ傷跡が残る宿毛。人的被害がほとんど無くて何より、と、おっしゃっておられました。そうですね。この地震をきっかけとして、防災意識を高めんといけません。
今朝の高知新聞に「野中兼山遺族の墓倒壊」という記事が写真付きで載ってました。そこで、その墓所がある東福院の山へ立ち寄り、撮影してきたのがこの写真。
高知県人にとって馴染みの深い、宮尾登美子さんの「婉という女」の主人公ゆかりの、墓所。少し解説しますね。
言わずと知れた、土佐藩初期の偉大な家老、野中兼山。若くして奉行職となり、二代藩主山内忠義さんの絶大なる信頼を得た兼山の治績は、松岡司著「土佐藩家老物語」によると、
百人衆に始まる郷士の登用と新田開発
沖ノ島と篠山におきた宇和島藩との国境論争
捕鯨や尾戸焼などに示される殖産興業
山田堰、松田川河戸堰、津呂港、室津港など数多い土木開発事業
寛文国産問屋・南学の興隆・・・・・・などなど
しかし、性格は峻厳で、妥協を許さない。農民や役人などを酷使したことから敵も多かった野中兼山。まあ、今だったらパワハラで辞職間違いなしのやり方やけど、様々な業績を残した人物。後世への恩恵は計り知れない。
忠義公が隠居し、三代藩主忠豊の時代になると風向きが変わり始め、反兼山派が徐々に勢力を強めるも意に介さないのが、兼山の兼山たるところで、強烈なプライドで発言し、行動していったのでした。結局、忠豊公に奉行職を解任された兼山は、香美郡中野に隠居し、その年のうちに「様々な流言飛語のなかに波乱万丈の生涯を終えた」のでした。わずか、48歳。
よほど、多方面で恨みを買っていた兼山さん。
失脚後に家督を継いだのは長男の清七一明くん。しかし兼山没後に食禄を没収され、一族の大半が宿毛へ配流となる。兼山側室4名と、子女8名。そして、清七くんなどの子女も亡くなってゆき、1703年に最後の男子が死亡。1664年に宿毛に流されてから、40年近く幽閉された訳で、苛烈を極めてます。
男子がいなくなったので、残された婦女は、やっと解放。3歳だった兼山の娘、婉は42歳で解放され、高知の城下へと戻り、医師、薬業で活躍したとのこと。
宿毛の墓は、兼山没後の宿毛へ流され、宿毛で亡くなった、清七さんはじめ7名の、墓所。清七の墓碑は、婉が建てたもの。
今回、その、婉が建てた兼山嫡男清七さんの墓石が、地震で倒壊しました。左側の崩れている砂岩が、そうだと思います。
貴重な貴重な文化財。どのように修復するのか。これは、キチンと修復しないと、婉さんに叱られてしまいますね。