大坂城炎上〔7597〕2024/02/02
2024年2月2日(金)薄曇り
「今日は何の日」を見ると、1868年2月2日、大坂城炎上、とありました。そうか。鳥羽・伏見の戦いで敗色濃厚になった徳川慶喜くんが大坂城を脱出したのが1月30日。翌日、群衆が大坂城に乱入し、新政府軍への引き渡し後の2月2日に出火、大炎上、という結末を迎えた大坂城。
その際に炎上した大坂城には、天守はありませんでした。焼失したのは、本丸御殿を中心とする、城内の構築物のほとんど。天守は、1665年の落雷で焼失した後、再建はされてなかったのでした。その焼けた天守は、大坂夏の陣で破壊された後、二代将軍秀忠によって再建された白亜5層6階の巨大な天守。それ以前、秀吉によって建てられた大坂城よりも大きいものだった、と言います。まあ、秀吉時代の方が装飾とかには凝っちょったでしょうけどね。秀吉の趣味に鑑みて。
それはともかく大坂城。明治になってから、陸軍の施設となった大坂城の敷地。そこに、秀吉時代を彷彿とさせるような天守を再興しよう、という話が出たのは、昭和のはじめ。乏しい歴史資料をもとに、鉄骨鉄筋コンクリート構造の天守が完成したのが昭和6年。その際、なんと、エレベーターもつくられているというから、力の入れようが違うねー。
そんな訳で、以前にも書いたけど、残念なエレベーター付きの天守と言うた人も居るけど、それはそれとして、今となっては貴重な貴重な近代建築遺産となっている、大坂城。
秀忠によって再建された際、各地の大名に石垣の石などを供出させた訳やけど、結局使われなかった石が「残念石」と呼ばれて各所に残っています。木津川に残る「残念石」の活用について、こんな話が出てますねー。さあ。どうなる大阪万博。
と、ここまで「大阪万博」「大坂城」と書いてきました。大阪。大坂。大坂が大阪と書かれるようになったのは、明治5年からと言います。「坂」の字が、「土に返る」で縁起が悪い、と誰かが言うたみたい。なので、江戸時代以前の大坂については「大坂」と書くべきやけど、中学校までの教科書では、江戸時代以前も「大阪」と表記しているんだそう。このページに理由が書かれてます。うーん。なんか、紛らわしいねー。誰が言い出したんやろう。
この、高知城の天守は、1749年再建のもの、とされています。美しいねー。本丸御殿と天守が一体になって残るのは、高知城だけ。安政南海地震でも、昭和南海地震でも壊れなかった天守と本丸御殿。そして美しい石垣。来るべき南海トラフ大地震にも持ち堪えて欲しいと切に願う、高知城。