赤穂浪士と宝永南海地震〔7595〕2024/01/31
2024年1月31日(水)曇り
ぬくい朝。今日はこれからお天気が崩れる予報で、高知市、明日朝の予想最低気温はまさかの10℃超え。まあ、明日から2月ですきんね。それにしても。
1月は、今日でおしまい。1月31日。1月31日で思い出すのは「空白の1日」の江川事件でしょうかねー。プロ野球協約の不備、空白の1日を使った強引なやり口には、日本中が憤慨したものでした。あれからもう、45年。そんなに昔やったですかねー。
あと、1月31日は、赤穂浪士の討ち入りの日。いや、旧暦では元禄15年12月14日の夜、という訳やけど、西暦では1703年1月30日の夜。更に正確に言えば、日付が変わって1月31日の、未明。ウィキによりますれば、義士たちが堀部安兵衛と杉野十平次の借宅を出発したのが午前4時頃とのこと。
その日の江戸は大雪だった、と講談とかでは語られます。そんな季節ですきんね。まさか最低気温が7℃とか10℃とかはあり得なかったでしょう。まだ温暖化していなかった地球。
討ち入りを果たした義士たちは泉岳寺の浅野内匠頭の墓前へ。最終的に切腹させられるのは、1703年3月20日。結構、間が空いてるんですね。
その話が講談や芝居となって江戸の人々に人気となり、尾鰭がついて今に、至る。真相についての幕府の思惑とか、いろんな説がいっぱいありますね。そんな赤穂浪士討ち入り事件が起きたのは、321年前の、今日。
そしてその4年後、1707年、宝永南海地震が発生し、富士山が大噴火。そう。元禄文化が花開き、赤穂事件とかが勃発した直後の時期に、日本列島はそんな災害に見舞われていたのでした。地球にとっては、元禄文化もなにも関係ない。
高知県内、安政南海地震に関連しての「碑」などはたくさん存在していて、このにっこりでも幾度か紹介してきたけど、宝永南海地震についてのものは、結構少ない。以前、須崎の「宝永津波溺死之塚」は紹介しました。
この写真の墓碑は、種崎にある「久保家墓碑」。今朝、探してきました。この墓碑自体は、明治19年に建てられたものですが、刻まれた文面に、宝永地震のことが出ています。宝永地震の津波で、種崎村にあった、昔の記録が記された墓碑が全部流されてしまった。その墓碑の主である久保家の初代もわからなくなってしまった。そこで新たに「初代」を設定した、と刻まれているとのこと。
宝永南海地震の記録は、谷陵記など、非常に希少。その4年前、赤穂浪士討ち入り事件の四十七士の墓は、今も泉岳寺に立っており、お線香が絶えないのに。
赤穂浪士の討ち入りは321年前。その4年後に、宝永南海地震。その147年後に、安政南海地震。その92年後に昭和南海地震やけど、この地震は例外的に小さかった南海地震。あまり、エネルギーは放出されていません。となると。安政南海地震から170年の今は、なかなか危険だったりするのであります。
まあ、日本列島、いつでもどこにでも危険は潜んでいることは、今回の能登半島大地震でよくわかった訳やけど。