水通町の謎〔7531〕2023/11/28
2023年11月28日(火)晴れ!
雨上がりの暖かい朝。濡れた風景が朝日に輝く。
こないだ、奇跡的に残った町名、水通町、通町、本丁筋のこと、書きました。で、今朝は、その水通町で撮影してきた写真。水通町。水道町ではなくて水通町で、すいどうちょう。昭和41年の区画整理で、ほとんどが上町になってしまったけど、0.002平方キロだけ残った水通町。
今朝の写真は、その残された水通町から、旧水通町方向を撮影したもの。その町名の由来となった、真ん中に水路が走る道。今日は火曜日。今も火曜市が立っていて、近在の皆さんに親しまれてますねー。善き哉善き哉。
水通町、藩政期には東西500間、南北40間の細長い町で、家数は260軒。元々紺屋さんが居住していたという水通町。ここを流れる水路が、紺屋で使われてたんでしょうねー。その頃は、その水路は金子橋のところで外堀に落ちていたけど、樋が郭中へ引かれてからは、郭中の用水として利用されるようになった、とのこと。杓田村の水神堂に設けられた水門で、鏡川から取水された清い流れが、ここを通って郭中を潤していたのでした。龍馬の家の裏手も流れてたので、少年龍馬も、この水路で遊んだことでありましょう。
この、おんちゃんが渡っているのが思案橋。長さよりも幅の方がずっと長い、思案橋。
思案橋というと、日本橋小網町にあったという思案橋が有名やね。その橋の向こうには移転前の吉原遊廓があり、その橋の上で吉原へ行こうか芝居へ行こうか思案した、という由来が有名な思案橋。
ではこの思案橋は。この西側に玉水新地があって、そこへ行こうかどうしようか思案した、と思っている人も多いようです。しかし、玉水新地ができたのは明治になってから。藩政期、ここで思案したのは、西からやってきた人が、本丁筋、水通町、通町のどの道を通ろうか思案したのに由来すると言われてますねー。僕は、それだけではない理由があったかも知れんなどと妄想しているけど。
それはともかく水通町。こないだも、昭和41年の「復興土地区画整理事業」で、この端切れの部分だけ水通町が残った、と、書きました。ただ、角川書店「高知県地名大辞典」を見ると、昭和47年にも水通町の一部が升形に編入との記載が、ある。と、すればだ。旧水通町の東端も、「水通町」が残っていたのか。昭和41年から47年の6年間、500間の「上町」を挟んで、東と西に飛地の「水通町」が残っていたのか。これは、謎だ。今朝も新しい謎が増えてしまった。世の中知らないことだらけ。