400年前から広かった〔7484〕2023/10/12
2023年10月12日(木)
秋。週間予報見ても、もう、最高気温が30℃を超えることはなくなった、秋の高知。ちょっと雲は多いけど秋空の下、今日は所用があってオーテピアにきてます。言わずと知れた、高知県と高知市の合築図書館。開館して、もう、5年が過ぎました。はやいねー。僕はこの図書館の基本構想委員会のメンバーをやってたこともあって、一際思い入れが強かったりします。そんな訳で、結構、ヘビーユーザー。昨日も便利なデータベースを利用しにきてたばかりなので、連日のオーテピア。
オーテピアは、今から10年前に閉校となった高知市立追手前小学校の跡地に建てられました。半世紀前に僕が通った追手前小学校。その北側の追手筋は、物心ついた時から今の広さで、中央分離帯には街路樹が。そんな風景だった。
その中央分離帯と街路樹が戦後になってできたもの、と知ったのは、このにっこりひまわりを描き始め、色々と調べるようになってからのことでした。発見したときは嬉しかったねー。
この、1952年の航空写真をご覧ください。高解像度表示で拡大してご覧くださいね。そう。現在のひろめ市場と土佐女子の間の道路は広くて中央分離帯があるけど、追手前小学校と追手前高校の間に中央分離帯は、ない。道もちょっと狭いよね。現在の追手筋は、高知城からひろめ前までが現在の広さであり、そっから東は今の半分の広さで中央分離帯も、ない。そんな風景だったという話は、以前にも書いたね。
それを知ってから中央分離帯の街路樹を見ると、ひろめの北側のクスノキと、オーテピア前のクスノキは、大きさが全然違うことに、気付くのでした。ひろめの北側のクスノキは、戦前からある巨木なので、あります。この写真、手前のクスノキと向こう側のクスノキの大きさの違いにご注目ください。
では、追手門からひろめ前までは、いつから広いのか。
それは、この正保城絵図を見ると、わかります。正保城絵図は、正保元年(1644年)に、三代将軍徳川家光が全国の大名に命じて作成させた、城下町の絵図。これはその中のひとつ、「土佐国城絵図」。藩政期初期の高知の城下町がどんな感じだったのか、この絵図で知ることができる訳やけど、その絵図で、既に、現在の追手門からひろめ前までが広かったこと、わかります。そう。そこは、道路というより、追手門前の広場だったのでした。この広場で、大名行列を整列させたりとか色々やったんでしょうかね。
今の若い人たちは、ここが大きな図書館である風景が当たり前。しかし僕らにとってはそこに小学校があり、追手筋は広くで中央分離帯に街路樹があるのが、当たり前。しかし僕らより上の世代の人たちにとっては、広くて中央分離帯がある追手筋は追手門からひろめ前までだけだった風景が、当たり前。
風景は変わる。どんどん変わる。
どんどん変わるのに、この場所は、400年前からこの広さでそのまんまある、という事実って、なんか、すごい。すごくないですか?