紺屋町の紙衣〔7469〕2023/09/27
2023年9月27日(水)晴れ!
朝ドラ「らんまん」も、今日の放送を入れてあと3話。もう終わるのか。もう、終わるのか・・・なんか、この半年間はアッと言う間やったねー。大人になってから朝ドラ観たことなかったけど、面白かったです。とても。いや、このドラマの佳境は、ひょっとしたら明日明後日かも知れません。ハンカチ用意して、楽しみにしてましょう。
さて。昨夜はこの界隈で呑んでました。ここは紺屋町。紺屋町と書いて「こんやまち」と読みます。紺屋はこうやで、県外の方なら「こうやまち」と読みそうやけどここは「こんやまち」。藩政期初期、つまり、山内の殿様が城下町を建設した頃に、紺屋が居住していたので紺屋町。その際の紺屋さんを「こうや」ではなくて「こんや」と呼んでたんでしょうかね。知らんけど。
で、紺屋町ができた時には、町の南部が高くて北部が低いという地形だった、らしい。それを、後になって均したんだそう。高知の城下町、今はほとんど凸凹や高低差を感じんけど、建設当初は結構高低差もあったんでしょうね。潮江川と大川に挟まれた、中洲のように土砂が堆積した土地につくられた城下町。当初の自然地形は、小さな水路のような小川が縦横に流れ、自然堤防のような微高地もたくさんあったと想像します。そんな自然地形をうまく活用してつくられたのが、高知の城下町。
城下町の周辺には、郭中界隈に居住する武士の生活を支えるたくさんの職人さんが、住まわされました。その職人のひとつが、紺屋さん。
その後いろんな変遷があり、「土佐国群書類従」の「土佐国産往来」には、城下町名物のひとつに「紺屋町紙衣」が挙げられている、と言います。紙衣。かみこ。かみころも。かみきぬ。しえ。色んな読み方があるけど、要するに和紙を原料とした着物。ここで和紙も漉いてたのかどうかは知らんけど、和紙で着物を作っていたのは事実のよう。ウィキ見ると、紙の着物は、丈夫で軽くて持ち運びに便利、ということで武士や俳人に好まれていた、と書いてます。なるほど。ちょいと意気で洒落た人たちが、着ていたのか。
近年、この紺屋町界隈には、ちょいと洒落た感じのお店が増えたよね。江戸時代も、ちょいと洒落た人が行き交う場所だった。のかも、知れない、紺屋町。こんやまち。
変哲もない通りやけど、長い歴史を持つ町、紺屋町。昨夜の鉄板焼きは、おいしかったです。