ボトルネックと国庁〔7468〕2023/09/26
2023年9月26日(火)晴れ!
秋晴れの、朝。今朝は、未明から仕事した後、ここへやって来ました。南国市の、国司館跡。奈良時代から平安時代、土佐の中心であった国庁が置かれ、かの紀貫之さんも住んだとされる場所。比江山と国分川の間から朝日が昇る。
今朝は、地球の気候が土佐の古代史にもたらした影響について考察しよう。地形と気候の話。
まず、土佐の弥生時代。南四国最大級の弥生集落、田村の集落が形成されたのが弥生初期。縄文終末期とも言いますね。長い縄文の温暖期が終わり、東アジアでも寒冷化が急速に進んだ時期。ちなみに縄文の温暖期に栄えたことで有名なのは青森の三内丸山で、東日本が優勢。どうやら、温暖期の南西日本は、温暖化による干魃とかで当時の食糧生産には適していなかった、という話もありますきんね。
で、その温暖期が終わって寒冷化した縄文終末期、大陸で稲作をやっていた人たちが、寒冷化による気候の変化を受けて日本列島へと渡って南下。寒いので、条件が良い南へ、南へ、ということで土佐の南岸にたどり着いたのでありましょうか。
DNA解析では、高知県人にはこの時期の渡来系のDNA比率が非常に高いらしいので、そういうことかも知れないね。
そして弥生時代になると再び温暖化し、物部川河口近くの稲作集落は、栄えた。数百年、栄えた。地球規模での温暖な時代は、ローマ帝国の繁栄ももたらした温暖化だった。
しかし、2世紀後半から地球はっ再び寒冷化へ。おそらくは土佐南岸でも、洪水が多発したんだと思う。ひょっとしたら南海地震の大津波も、あったかも知れない。物部川河口の自然堤防城に展開していた田村の集落は、徐々に衰退し、移転を余儀なくされてゆく。
その頃に増えてくるのが、野市などの更新世段丘界隈の遺跡や、国分川北岸界隈の竪穴式住居遺跡。国分寺から比江にかけての国分川北岸地帯は、その土地の傾斜もあって、水害には強かったのかも知れません。
そして律令制度が整うなかで中央集権体制が土佐までを強力に支配し、いつしか、ここが土佐の中心として栄えるようになった、という歴史。
ここの標高は約20m。国分川河畔より2m程度高いだけやけど、重要なのはこの地形だ。地形分類図で見ると、国分川は、このすぐ上流で山と更新世段丘に放されたボトルネックを通り、沖積平野へと流れ出ている。国庁が置かれたのは、ここ。そう。河川の流れから言えば、山蔭のような場所。これ見ただけで、洪水に強いことがわかるよね。
弥生終末期の寒冷化で洪水が増加し、田村の集落は各地へと分散していく。いつしか国分川北岸が条里制の農地を支配するのに最適な場所となっていき、平安時代の温暖期も、そんな時代が続いたのである。というのが本当かどうかは知らんけど、僕は、そんな妄想をするのでありました。
では、平安時代の温暖期が終わり、日本が中世となってからの土佐の歴史は、どのように、どんな理由で変遷していったのかは、今度また。
今日はいいお天気なので、そろそろ気持ちよく仕事を始めます。千数百年前の官人たちも、この朝日を見ながら仕事を始めたでしょうか。