甫喜ヶ峰疏水のトンネルの凄さ〔7392〕2023/07/12
2023年7月12日(水)薄曇り
最近、土木工事の話題が多い気がするけど、今朝も。明治の先人の努力で、今も僕らが恩恵に浴している偉大な土木工事、甫喜ヶ峰疏水。以前、ご紹介したこともあるけど、今一度。
藩政期初期、野中兼山は、土佐の国に夥しい農地を開発しました。川に堰をつくり、灌漑用水を走らせて。その多くの工事のひとつに、新改川の堰と灌漑用水がありました。その用水によって開発されたのがその名も新田、須江地区。しかし元々新改川は水量が少なく、その水を利用していた植田、久次などの地区との間で水争いが勃発し、それは、明治の時代まで続いたのでした。
野中兼山さんには構想がありました。それは、吉野川水系穴内川から、甫喜ヶ峰をぶち抜いたトンネルで水を引き、新改川に流す、というもの。しかし、それは実現しなかった。
そんな訳で明治になり、明治6年、7年の大旱魃で激烈な水争いが起き、その争いは大審院まで持ち込まれたというから、すごい。そこで、野中兼山の構想が再燃。しかしまあ、1000mの長大トンネルを掘らんといかん訳で、ああだこうだ言うてる間に、明治26年、再び大旱魃。慌てて検討を進め、明治29年に疏水工事が着工、明治33年に総延長1033mの疏水が完成した、という歴史。
かの、琵琶湖疏水が難工事の末に完成したのが明治23年。その10年後に、そんな国家事業でもない、限られた地域の為のものすごい土木工事が、土佐の山中で行われているという奇跡。
地理院地図で見てみると、穴内川のダムから取水された水は、ここで、1000m超のトンネルを抜けて分水嶺の南へ。そしていくつかのトンネルを抜けて新改川へと流れ落ちてゆく。その落差を利用してつくられたのが、高知初の水力発電所、平山発電所だった。明治の先人が考えた、壮大な構想。
この写真見たらわかるように、レンガ積みの、ちゃんとした設計、形式に基づいたトンネルだ。すごいね。
一番上の横長の部分が「笠石」。その下に「扁額」があり、その下の横長が「帯石」。トンネル部分のアーチが「アーチ環」で、そのてっぺんが「要石」。「キーストーン」とも言うね。
これほどのちゃんとした土木工事を設計施工する為には、それなりの技術者を招聘してきたんでしょうかね。それだけ、力が入った工事だった、甫喜ヶ峰疏水。その完成の5年後、明治38年に、以前紹介した熊井隧道ができてます。造りは、よく似てますね。あちらが土木学会選奨土木遺産なので、このトンネルも土木遺産級のもの、ということになりますな。
今もその疏水の恩恵は、新改川流域に灌漑用水をもたらし、新改発電所で環境にやさしい電力を僕らに供給してくれています。偉大なる土木工事、甫喜ヶ峰疏水。