焼けてしまった「昭和」〔7362〕2023/06/12
2023年6月10日(土)曇り
今日も雨の予報。まあ、梅雨ですきんね。ただ、昨日も雨予報やったけど、高知市内はあんまし降らんかった。良かった良かった。
で、こないだ、昭和の思い出を語りました。そこで今朝も、かつて僕が隊長をつとめていた「高知のぬかるみ探検隊」が探検したなかでも最強に印象深かった場所に、来てみたのでした。
このにっこりひまわりで初めてご紹介したのは2005年5月。2005年なので、もう、平成になって17年経過し、あちらこちらの「昭和」が遠くなり始めていた頃合い。そんな平成の世に、強烈な「昭和」が残っていたのが、ここ。宝永町の、路地。
両側に木造二階建ての長屋のような建物が並び、その間の狭い狭い路地に、昭和な店が並んでました。あの時代でも、僕ら探検隊員は「奇跡」と思った路地。その路地の写真をよくぞ撮影してましたね。
その後、幾度か行きました。しかし今から11年前、2012年5月に、火事で焼けてしまったのでした。南北に伸びていた木造二階建ての長屋は、南端の一部を残して全焼。その一階部分、狭い路地に面して営業していた何軒かの「昭和」なお店は、全部、焼失してしまいました。
焼けてしまう前、その真ん中にあった裸電球の共同便所や、路地中の風景も撮影していたので、今となっては貴重なアーカイブ。何よりも、焼けてしまう直前、2012年4月にも撮影してます。それこそ貴重な貴重なアーカイブ。
今朝3時過ぎ、出勤途中に撮影したのがこの写真。路地があった場所を南側から撮影。まだ路地が昭和だった2010年8月に南側から撮影したのが、これ。今朝の写真の右側建物のタイルが、2010年当時のタイルと同じなので、どのように変化したのかがわかると思います。昭和は遠く、なりにけり。
さて。なんで、宝永町に路地があり、昭和な飲屋街があったのか。これはよくわからない。戦前の地図を見ると、この界隈は市街地の外れ。すぐ東には田んぼ。つまり、戦争では焼けず、それで路地が残ったのかも、知れない。そして、南の堀川を短い渡船で中の島に渡ると、そこは硝子工場などの工場エリア。
工員さんたちは、仕事が終わると渡船で双葉町、常磐町、そして宝永町の路地で一杯やって、帰ったかも知れません。
いや、僕の妄想。
しかし昭和の頃、宝永町の、入り組んだ路地に賑わいがあったのは、間違いない。
そんなことを思いながら出勤。月曜日。さあ。そろそろ仕事を始めよう!