牧野博士とヤマモモの話〔7363〕2023/06/13
2023年6月13日(火)晴れ
梅雨の晴れ間。いや、これから曇って夜には雨の予報で、これからしばらくは晴れたり降ったりの繰り返しが続くみたい。まあ、梅雨ですきんね。
梅雨といえばヤマモモ。楊梅。
こないだ、ちょっとだけ色づき始めた、本社棟裏手の楊梅の実をご紹介したけど、今、正に食べごろを迎えております。ビッシリと成った、太くて赤い実。梅雨やねー。
と、思っておったら、今朝の高知新聞に牧野博士と楊梅についての記事が。その中に、こないだ僕も書いた、高知県の花がヤマモモになった経緯と、博士も、ヤマモモについては「花」より「実」の方が高知らしいと思ってた逸話が紹介されてます。僕と高知新聞のシンクロ率は、結構高いのだ。
それはともかく、今日の記事の主題は、67年前、1956年6月18日に、丸の内高校生徒会が十市のヤマモモを病床の牧野博士に送った話。当時丸高1年生で、ヤマモモ産地の十市に住んでいた少女が、家の畑のヤマモモを枝付きで採ってきて、丁寧に菓子箱に入れ、播磨屋橋近くの土電本社まで自転車で持って行ったという記憶を語っておられます。いい話やねー。
そのとき博士は94歳。寝たきり状態やったけど、高知から飛行機で運んだヤマモモを大いに喜び、「むしゃむしゃやりはじめ」「極めて上機嫌に」なったという話が紹介されてます。これは、当時の高知新聞の記事。
牧野博士が、高知でいかに愛されていたかを伝えてくれる記事。
そんなヤマモモ。楊梅。
そして。その少女が家の畑で採ってきた枝付きヤマモモを気に入った博士は、一番お気に入りの画工、川崎哲也さんにその枝付きヤマモモの写生を依頼。その完成した絵を見た博士が感動し、「ほら。わしはこれで植物図譜を作るんだゾ!」と叫んだという記事が、その年7月19日の高知新聞に掲載されてるそう。いいねー。実際そのヤマモモの絵は、博士の意を汲んで、1961年に出版された「日本植物図鑑」の巻頭を飾ったのでした。いい話やねー。
牧野富太郎。歴史上の人物やけど、まだ、こうやって関係したひとたちが居る。歴史上の人物やけど、同時代人。そんなことを感じて、嬉しくなるような記事。高知新聞、Good Job!!