やよい広場〔7358〕2023/06/08
2023年6月8日(木)薄曇り
今日は、この後雨が降り始めて、ちと強く降るかも知れんという予報。まあ、梅雨ですきんね。
昨日、吉野ヶ里遺跡の新しい展開について書きました。発掘調査結果がどんなものになるのかわからんけど、結果によっては、古代ブームが再燃するかも知れません。ついでに弥生時代ブームが訪れてもいいんではないか、などと思ってます。
そこで今朝は、出勤途中、この「やよい広場」に立ち寄ってきました。空港滑走路の北端。空港拡張工事の際に実施された埋蔵文化財発掘調査で明らかになった、田村遺跡の概要を見ることができる公園。久々にたくさんの説明板などをじっくりと読んでみたけど、なかなか見応えある展示。土佐の弥生時代を知るには、なかなか良い公園だと思いました。せっかくなので草も刈って、もうちょっと整備して、宣伝もしたら、良い公園になるのにね。
この土地に多くの人々が暮らし始めたのは弥生時代草創期。日本で弥生時代が始まる時期に、ここに突然弥生集落ができ、田んぼができたのでした。ご承知の通り、土佐には縄文遺跡はあまりありません。実はこの場所にも、縄文時代の遺跡はあるのですが、弥生遺跡との連続性は、よくわからない。ここで発掘された弥生初期の竪穴式住居には、珍しい方形のものがあり、それは朝鮮半島松菊里遺跡のものとよく似ているといった事実にも鑑みて、弥生初期に朝鮮半島から渡来してきた人々によってつくられた集落だと想像できます。最近の遺伝子解析でも、それが証明されてるしね。
それにしても、どうやってここまで来たんでしょうかね。関門海峡、豊後水道を船で通ってきたんだろうか。恐らくは、朝鮮半島の寒冷化により、稲作できる土地を目指して南下してきたんだろう、とは想像できます。
ここにできた集落は、遺跡発掘の結果、土佐でも最大級の弥生集落だったことは、わかってます。発見されたのは440棟の竪穴式住居と220棟の掘立柱建物跡。何百年間の建物跡なので、一度にそんなに建っていた訳ではないけど、それでも結構多い。恐らくは、最盛期、数百人が暮らす集落だったんだろう、と、推察できます。
で、弥生前期から、その集落は環濠によって囲まれていた、らしい。しかも薬研堀のようなものなので、間違いなく防御防衛用の、堀。それは、吉野ヶ里にも通じるね。
吉野ヶ里と違うのは、ここの集落は、更新世段丘ではなくて、物部川河口の自然堤防上にできたこと。田んぼは、集落近くの低地に、等高線に沿うようにつくられています。一片2mから4mの小さな区画に区切られた田んぼが、たくさん。発見されたのは224枚。そして、この遺跡を有名にしたのは田んぼに残る「足跡」。100個ほどの足跡。親子連れと思しき足跡もあったりして、楽しい。
しかし、よく考えてみると、足跡が残るという状況は、突然、なにかが起きた、ということかも知れんのですよね。恐らくは、農作業後に襲ってきた洪水。ほのぼのとした痕跡ではなくて、そんな激しく厳しい事件の痕跡なのかも知れない。などと2000年の昔に想いを馳せる。
今日書いたようなことは、全部、この公園の、草に埋もれた説明版に書いています。勉強にもなる、そして太鼓のロマンを感じることができる、良い公園。
弥生時代ブームがくると、いいね。