蓋、衣笠、井川、入交家〔7353〕2023/06/03
2023年6月3日(土)晴れ!
梅雨の晴れ間。昨日はよう降りましたねー。皆さん、大丈夫だったでしょうか。雨はさっきまで残ってましたが、今は、晴れ。雨上がりの朝は、とてもキレイで気持ちいい。
ここは、こないだもご紹介した稲生の石灰山の遠望。
石灰工場の向こう側が「衣笠」。紀貫之さんが京の衣笠を懐かしんでそう呼んだ、という伝説があるけど、その話についても妄想したことあるね。で、その向こうが「井川」。これで「ゆうこう」と読む、難読地名。
今朝は、土佐の名家「入交家」についてのお話。この話は、中高大学が同じで、テレビとかで活躍するようになった姓氏研究家、森岡浩くんが調べたもの。「日本人のお名前」でお馴染み、森岡先生ね。
「入交家」は「いりまじりけ」で、高知県人にはお馴染みの姓。地元財閥ですきんね。他にも、龍馬像建立で有名な入交好保さんもいるし、土佐にはたくさん存在する「入交家」。
その出自は、どうやら嵯峨源氏。渡辺党。で、源平合戦の頃に、渡辺源左衛門尉が有名な新宮十郎行家の娘さんを妻とし、出雲で生まれたのが渡辺潔。その潔くんが土佐へやって来て、片山荘蓋(きぬがさ)村、入交(にゅうこう)に移り住んで、入交(いりまじり)姓を名乗ったとのこと。
その「蓋」は「衣笠」となり、入交(にゅうこう)は「ゆうこう」となって、いつしか「井川」という文字が当てられ、井川(ゆうこう)となった、という話ね。また、潔くんが土佐へやって来たのは、熊野権現の先達職であったから、という説も、ある。
井川の入交家は、その後、田村荘王子に移って国衆として勢力を伸ばし、長宗我部の有力家臣に成長しました。今も田村には若一王子さんが鎮座ましまし、熊野信仰との関係を偲ぶこと、できます。
田村の豪族、入交家で育った入交六郎太郎は、例の、豊後戸次川の戦いで討ち死にしています。雪蹊寺には、戸次川の戦いの戦死者が刻まれた霊板があり、今は高知県立歴史民俗資料館に委託保管されていて、そこに、その名前を見ることができます。
そして。
長宗我部家臣だったこともあって、江戸時代には郷士となり、寛延元年(1748年)に郷士入交政房の三男、太三右衛門さんが高知城下に出て「桜屋」を創業、あの石灰山を購入して良質の石灰製造に成功して財を成し、土佐藩の石灰御用を引き受けて豪商となった、とのこと。
それが現在の入交グループの、礎。
この話、全部、森岡くんの受け売り。間もなく発売になる「土佐史談」283号に、詳しく掲載されますので、ぜひ、買って読んでみましょうね。