介良野の弥生集落〔7105〕2022/09/28
2022年9月28日(水)晴れ
今日は、秋の青い空を薄い薄い雲が覆っていて、少し蒸し暑い。でも、まあ、いいお天気です。
こないだ、田村の弥生集落が2世紀頃に突然姿を消し、分散していった後、比江界隈が土佐の中心となっていった推移について、書きました。田村の弥生集落は、その出土物から見て、そしてその登場の仕方から見て、高い技術を持った集団がやってきて切り拓いた大きな集落だと思われてます。北部九州から海沿いを伝ってやって来た集団かも知れない。
その終焉はかなり唐突なので、その理由については色々と言われてるけど、僕は、気候の変化が大きかったんではないか、などと妄想している訳です。
で。弥生終末期、香長平野では、各所の集落が最盛期を迎えたりしています。その一つが、この界隈にあった介良野遺跡。ここの集落は、弥生前期、終末期、古墳時代にかけて、断続的に存在してきたと言われてますね。この道路の建設に際して実施された発掘調査で、たくさんの竪穴式住居とかが出現し、弥生の終末期にはかなり大きな集落があったことが、判明したのでした。
地理院地図で見ると、ここ。地形分類図で見ると、こうで、介良川の自然堤防上に展開した集落であること、わかります。太古の昔、物部川はここを流れて浦戸湾に流入してたとも言いますが、その痕跡の介良川。
地形分類図を、もっと高い位置から鳥瞰してみよう。田村が、ここ。介良野が、ここ。この時期になると、物部川は、氾濫しても介良野の方へは無事だったと推測されます。そして、鉢伏山に連なる向山に守られて、津波の直撃は、なさそう。で、田村に、近い。
そんなこんなで、洪水や津波に遭った田村から人々が移住してきた、という風景も、妄想できます。ではなぜ、ここが比江のように政治の中心にならなかったのか。古浦戸湾にも近いのに。
この写真の向こうに見えるのは高天原山で、古墳群もあるように、この界隈、弥生時代が終焉して古墳時代を迎えると、かなりの有力者が住むエリアになったのは、間違いない。でも、その後は発展しなかった。
ここと、ここの違い、差は、いったい何なのか。単なる偶然なのか。つまり、比江界隈の有力者が偶然能力勢力を持った人たちだったのか。それとも、他に理由があるのか。
まだ、地形と気候と歴史については考察が始まったばかりなので、勝手に妄想できて、楽しいね。
妄想してる場合ではなくて、仕事仕事。そろそろ仕事を始めよう。