「新聞の葬式」の説明板の葬式〔7073〕2022/08/27
2022年8月27日(土)晴れ
青柳橋東詰。五台山へ上る道路の、上り口。
ここにあったものが、ない。そう。ここには「新聞の葬式」のことを説明した立札があったのでした。
それは、1996年に、高知で「第48回新聞大会」が開催されたのを記念して立てられた説明板。こんな感じで立ってました。こんな感じで立ってたのに。
今朝は、久々に五台山RUN。今の五台山は、ツクツクボウシの山。どこ走っても聞こえてくるオーシツクツク。暑いけど、風は少し涼しくなりました。
で、車道の上り口で、「新聞の葬式」のこと書いた説明板がなくなっていたのに気付いて愕然としたのでした。そんなに古いモノでもなかったのに。なんで無くなったんだろう。
以前も説明したように、その説明板は、明治15年に高知であった出来事を描いてました。明治15年というと、自由民権運動が最盛期を迎えていた時期。明治14年に自由党が結成され、その機関紙として発刊されたのが「高知新聞」。しかしそういった動きが面白くない政府により弾圧を受け、何度も何度も発行停止となりました。そして、明治15年7月14日に、遂に「発行禁止」となる。「停止」ではなくて「禁止」。もう、発行することはできない。そこで7月16日に「高知自由新聞」を発行し、そこに「高知新聞」の「死亡広告」を掲載したのでした。
「我ガ愛友ナル高知新聞ハ 一昨十四日午後九時絶命ニ付 本日午後一時弔式執行仕候間 愛顧ノ諸君ハ来会アランコトヲ乞
七月十六日 高知新聞ノ愛友 高知自由新聞社」
本町の新聞社から、稲荷新地を通り、青柳橋を渡って五台山まで組まれた葬列には、5000人が参列したそう。で、その「高知自由新聞」も7月21日に発行禁止となり、27に執り行われた新聞葬式には10000人が参列。なんか、楽しそうやね。稲荷新地通って吸江の新地なので、そういった女性も多かっただろうし。
もちろん弾圧や投獄など、非常に厳しい状況の中で行われたものやけど、なんか、余裕がある感じ。
今、幾度か紹介したように高知新聞で「美しき座標ー平民社を巡る人々」という秀逸な連載が組まれてるけど、そこに登場する人々も、今では考えられないような厳しい弾圧を受けながらも、行動が狭くないし凝り固まってないし、深い。当事者の知識や行動力もすごいけど、ユーモアのセンスもあり、厳しい状況の中でも笑いを忘れていないし、楽しむことも忘れていない感じ。
うまく表現できんけど、とにかく、考えや行動が狭くないんですね。知性があるし。
「新聞の葬式」説明板。こういうセンスが、今の時代も大切だと思う。真面目さの中の、笑い。センス。そして知性と余裕。
「新聞の葬式」説明板の葬式があったとは、聞いてません。あらためて立てられるのならいいけど、そうでないのなら、今一度説明板の葬式を催してほしい。時節柄リモートでもいいのでね。