高知新聞、平民社、北村澤吉、浦戸大橋〔7030〕2022/07/15
2022年7月15日(金)曇り
7月も半分過ぎてしまった。早いねー。コロナが気になる夏やけど、楽しみたいね。楽しみたい。
で、今朝は高知新聞ネタ。朝、新聞読むのが大好きやけど、高知新聞の地元取材とか企画とか、なかなかたいしたもんだと思ってます。全国の新聞の中でも、かなり光っていると。
現在進行中で言えば、幾度かご紹介してきた「美しき座標」。「平民社を巡る人々」という副題で、今まで中江兆民や幸徳秋水、堺利彦、田中正造らにスポットを当てて展開してきた特集。今は第6部で、その時期(明治中期)の、女性や子供などがテーマ。当時の、過激な社会主義者と言われていた人々の主張が、現代であれば至極当然の主張であることがわかるし、当時の保守論壇の人々の主張は、今であればとんでもない暴論であることがわかったりして、楽しい。何より、この特集では、当時の空気というか雰囲気というか、堅苦しいだけではない、人々の活き活きとした息遣いが聞こえてくるのが、いい。毎朝楽しみに読んでます。
その左の記事。南国史談会が、かの、北村澤吉さんの遺した資料1万点を調査している、という記事。こりゃ、すごい。北村澤吉さんについては、このにっこりでも幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も書いてきました。立田出身で、帝大卒業後、漢学者として活躍した北村さんは、1938年に帰郷して教育施設「日章園」を創設。私財を投じて後進の育成に尽くした人物。その「日章」は、地名となり、小学校や郵便局の名前になって、今に残る。
旧日章園は立田公民館になり、それも今年5月に取り壊されたけど、そこに残された膨大な文書や書籍などの資料を、南国史談会の皆さんが調査、整理をされておられる、という記事。すごいね。
僕が子供の頃は、今、本社がある場所に建てられた新工場のことを「日章の工場」と呼んでました。高知空港が「日章の飛行場」と呼ばれてた時代の話ね。その「日章」は、北村澤吉さんが中国の古典から引用してきた言葉。南国史談会のみなさん、ご苦労様です。
そして「浦戸大橋50歳」。昨日も書いたけど、1972年7月に開通した浦戸大橋が、50歳を迎えました。早明浦ダム建設がなければ、浦戸大橋もできなかった、という話は知らんかった。ホント。この橋がなかったら、高知の風景、産業なども、今とは随分と違うものになってたことが、よくわかります。
でも、浦戸大橋は、徒歩や自転車だと不便だし、危ない。そこで、現在も県営渡船(無料)が運行し、重要な住民の足となっているのはご承知の通り。
浦戸大橋ができるまで、種崎と浦戸の間に市営渡船が運行されてた、と、今日の記事には書かれてます。そうか。あの、僕がしょっちゅう乗ったあの船は、市営だったのか。
色々勉強になる、高知新聞。
世の中、知らないことだらけ。だから、楽しい。