浦戸大橋がなかったら〔7029〕2022/07/14
2022年7月14日(木)雨
そんな訳で浦戸大橋。開通して50年を迎える浦戸大橋を通って、出勤してみました。高知新聞では、開通50年の特集が組まれてますね。
で、こないだ書いた、9年前にはまだ痕跡が残っていた「ちょっと待て」の標識は、やはり、撤去されていました。「ちょっと待て」があったのは、この左手の階段降りたとこ。そう。向こうのあの大きなフェンスのお蔭で、必要ないものになりました。開通時の写真見ると、最初はこの手摺りだけしかなかったので、かなり危険なものではありました。今は忍び返し付きのフェンスがあって、安心安全な、浦戸大橋。
それにしても、この造形の大きな橋を、よくぞ計画したもの。浦戸湾の入り口、ということで、大きな船舶が下を通り抜ける必要がある。なのでこんな形状になったんでしょうね。今朝の高新特集記事によると、この架橋が実現したのは、早明浦ダム建設に際しての「関連付帯事業」に入れ込んだことによるんだそう。そうでもなけりゃ、実現しなかった夢の架け橋。
そこで、もし、この橋が架けられていなかったら、という歴史の「if」を想像してみました。
浦戸大橋が無かったら。高知の海岸を走る道路は、浦戸湾によって寸断。東西の交通は高知市の市街地を通るルートのみとなる。桂浜観光と種崎仁井田地区は完全に切り離され、空港から桂浜へ行くのにも、一旦高知市の市街地へ入ってから南下しなければならない。桂浜観光は、かなり不便なものとなってたでしょうね。
そこで。
恐らくは、高知港を出入りする大型船舶の邪魔にならず、浦戸湾の東西を結ぶルートとして、新田萩町から弘化台に橋が架けられることになっていただろう。そうなっていたら、新田界隈や五台山南側界隈の風景は、今とは全然違ったものになっていたと思う。もちろん、三里仁井田も、浦戸長浜も、今とはまったく違う風景だった。
もうひとつ。浦戸大橋がなかったら、種崎と浦戸、長浜の間には、自動車が乗れるフェリーが運行してたと思います。それは、間違いない。ひょっとしたら、そのフェリーは、ついでに高知港とか若松町まで運行してたりして。
いかん。また、妄想が始まった。
50年前に浦戸大橋が架けられず、今現在、架橋するとしたら。たぶん、こんな橋ではなかったと思う。その理由は、その耐震構造にあります。以前、こんなこと書いたけど、南海地震が近づく今なら、もっと違う方法を考えたでしょうね。
将来、この架け替えが行われる時には、どんな計画になるんだろう。夜明け前。種崎側の上り口で、そんなことを思う朝。