物部川河口の地政学〔7021〕2022/07/06
2022年7月6日(水)雨のち晴れ
昨日の県中西部、降ったみたいですね。最近お馴染みの線状降水帯。折りしも繁藤災害の日。大自然の力は凄まじい。
そして台風も過ぎ去り、暑い夏が戻ってきました。今日はこれまた凄まじく暑い予報。夏ですきんね。水不足もかなり解消されたようなので、ここからは心置きなく晴れて欲しいと思う、7月の朝。
物部川の今朝はこんな感じ。昨日に比べたら随分水量も減りました。今のように治水がしっかりしてない時代には、この扇状地一帯が幾筋もの流れに覆われてたんでしょうね。この、地形分類図を見たら、想像できます。
この平野自体が、物部川の流れによってできた扇状地。幾度もの氾濫の中で形成されてきた、扇状地。河川の流路がひとところに決められたのって、近世になってからでしょう。それまでは、地形も、「川の流れに身を任せ」状態やったのかも知れません。
そんな訳で、野中兼山さんの事績ってのはすごいね。すごい。物部川の流れを現在のものに固定化したのも、野中兼山さんと言われてます。山田堰などをつくって物部の流れを農業用水などに利用し、堤防を築いて流路を固定化する。
固定化しないと、せっかく開拓した農地が、洪水によって再々水没してしまう危険があるからねー。
戦国期まで、物部川の流れはもっともっと広がっていたと思われます。網の目のように流れ、たくさんの中洲が存在する、大河。しかし、舟入川や野市の井筋などに分水するようになり、本流の水量はかなり減少したのでありましょう。物部川は、今見るよりずっと水量の多い大河だった。
その河口部には、物部川上流域の、材木などの資源を運び出す港があり、都市化して繁栄した、という説もあります。大湊。大湊、という地名が、その往時の繁栄を偲ばせてくれる。中世、守護代屋敷がその河口近くに置かれたのも、その地の重要性を示してます。
しかし、気候の変化や土砂の堆積、地政的な変化により、いつしか、浦戸湾沿いが土佐の中心となる。野中兼山さんの事業は、物部河口の衰退にとどめを刺した、という話もありますね。
野中兼山さんの事業により、物部川上流の物資が、舟入川を通じて浦戸湾へと搬出できるようになった。すると、物部川河口の港は必要なくなり、大湊は大湊でなくなり、いつしか忘れられて行った、という歴史。
写真は今朝、5時前の物部川。動画を撮影してて丁度雷が光ったところを切り取りました。画面が白くなっているのは、雷。
これ書いてるのは6時過ぎで、青空が顔を覗かせ、夏のお日様が照りつけ始めました。暑い1日が始まります。さあ。野中兼山さんに負けないように、頑張って仕事を始めよう。