「野」考〔7007〕2022/06/22
2022年6月22日(水)曇り
今日の天気予報は曇りで、夕方から晴れ。蒸し蒸しする1日になりそう。湿度、高いです。
ここは伊達野。いたちの。向こうに見えるのは東部自動車道の「なんこく南インターチェンジ」。東部自動車道は、あの山を切り拓いて通されました。以前、Jr.2号を連れて見学に行った向山戦争遺跡は、今はもうありません。
あの現地説明会のとき、この土地が伊達野(いたちの)という土地であることを初めて知りました。伊達野。だての、ではなくて、いたちの。
角川書店の「高知県地名大辞典」によりますれば、「もと低湿な荒蕪地で、地名は、篠竹などが生茂る原野にイタチが多く生息し、ネズミの天敵となっていたことにより、感謝の意も込めて命名されたという。」とのこと。
伊達はイタチで、ネズミを退治してくれる大切な生き物であった訳か。
元々は、荒野。
この伊達野の西は介良野で、東は住吉野。その東が西野野。以前にも書いたけど、全部「野」がついてます。ここで言うところの「野」は、農地ではない原野のことを言うておるようです。そもそも「野」には、そういう意味があったのでしょう。
もちろん「野」には、「野ら仕事」のように田畑を意味する場合もあったようやけど、農地にはできないような場所のことを指すことが多かったのではないか、と僕は思ってます。
野市は、野中兼山の灌漑事業によって、「野」だった場所が「市」が立つくらい栄えたから「野市」と言われてますが、その「野」も、農地にできないような原野だったと思われます。
そうそう。この伊達野も、野中兼山によって舟入川が整備された後、土佐藩によって新田開発された土地とのこと。ここも、兼山先生によって「野」から良田に生まれ変わった土地、ということになるのでしょうか。すごいね。兼山先生。
ここが近世以降の農地であることは、この地理院地図を見てもわかります。つまり、香長条里になっていない。そのことが、古代に農地ではなかったことを証明します。律令制が整備された時代、ここは低湿地の荒蕪地で、農地にしようなどとは思わなかった訳だ。
今朝、5時前、出勤途中に撮影した伊達野。ここはこの香長平野でも、田植え稲刈りが早い地域。なので、稲もここまで生育してます。稲穂がついて、頭を垂れ始めております。極早稲の田んぼ。今もイタチが居るかどうかは知らんけど、かつて低湿な荒蕪地であったこの土地は、いち早く僕らに新米を届けてくれる。
それもこれも、先人の知恵と努力の恩恵。
ここは、南北を山に挟まれてて、朝靄が多い場所。たぶん、その朝靄がおいしいお米を育ててくれていると思う。はやく新米食べたい、と思いながら出勤してきた、梅雨の朝。