羽田空港で昭和初期の羽田を見る〔6981〕2022/05/27
2022年5月27日(金)雨
そんな訳で、羽田空港。今朝の飛行機で帰りますが、早めに空港に来て、このにっこり書いたり仕事したりしてます。早朝の空港は比較的静かで、心地よい。
でも、空港の人出、増えてきました。afterコロナというよりは、徐々にwithコロナが定着してきた、ということでしょうかね。そんな羽田空港で、スマホに戦前の地図を表示して撮影してみたのが、これ。青丸の部分が現在地。当然やけど、戦前は、ここは海の中。干潟を埋め立てて競馬場と飛行場ができてるのが、見えてます。そして穴守稲荷さんも。
以前にも書いたけど、現在の穴守稲荷さんは、戦後すぐ、この界隈が米軍に接収された際に移転したもの。元はここにありました。京浜急行の電車がその近くまで来てたことも、この地図でわかります。
ここに飛行訓練場ができたのが、大正6年のこと。そして昭和6年、民間飛行場になった訳やけど、当時は飛ぶ飛行機も少なくてのどかなのどかな羽田だったと思われます。そこには海水浴場もあったしね。
江戸湾に面した、のどかな場所。穴守稲荷さんの前には鳥居前町ができていて、芸妓さんとかもおったみたいね。今からは想像もできない、往時の風景。東京に近い保養地みたいな位置付けやったでしょうか。
民間飛行場になったのが昭和6年。そして翌年、競馬場ができました。競馬場は昭和12年に廃止されてるので、たった6年間の競馬場。しかし、地方競馬としては日本一の売上を誇ったそう。
海水浴にピクニックに競馬。いい時代やったんでしょうね。しかし戦争の気配が、すべてを押し流していった昭和10年代。
戦時中は、当然のように軍用飛行場となり、終戦。米軍の基地、Haneda Army Airbaseとなりました。その際、界隈に住んでいた3000人近い住民が48時間で強制退去させられた話は、天空橋近くの大鳥居のところの説明板で知ることができます。
そして占領が終わると、東京国際空港として発展し、現在に至る。コロナ直前の乗降客数は世界5位だったそう。今は知らんけど。
僕が東京で大学生やってた頃は、こんな感じの羽田空港でした。今思えば小さかったねー。でもコンパクトで便利でした。成田空港ができて(当時は成田闘争が最盛期)、国際便は全部そっちへ行ったけど、台湾の中華航空だけは羽田発着で、僕はそれに乗って台湾へ行ったのでした。40年ほど前の、思い出。
と、思い出に浸っている場合ではなくて、たまった仕事を片付けんといけません。飛行機は9時半なので、それまで頑張ります。雨の羽田空港で。