天神橋の親柱、鏡川〔698〕2005/03/14
2005年3月14日(月)これ以上ない快晴ですな
今朝は素晴らしい快晴。抜けるような青空が広がっちょります。最低気温は1℃と冷え込みましたが、おかげで空気も透き通り、見事な朝になりました。
ここは天神大橋南詰。朝日がビルに反射してきれいですな。現在の大きな赤い橋は昭和61年に架けられたものでありますが、ここには藩政期から、数々の橋が架けられてきました。写真の「天神橋」と刻まれた丸い柱は、大正14年に架けられた橋の親柱だそうです。その橋の袂にあった紋を復元したものが左にあります。天神様だけあって梅の紋ですね。
「鏡川」とこの川が呼ばれだしたのは、土佐藩五代藩主山内豊房公の時代らしいですね。
文人藩主豊房公は、土佐の山川草木151種類に風雅な名前を付けましたが、そのなかに「鏡川」というのが出て来ます。それまでは、「潮江川」とか「南川」とか呼ばれよったみたいです。藩政期初期には、この上流で現在の江ノ口川とこの潮江川に分れ、江ノ口川の方がずっと大きな川やったそうですね。それで現在も残る地名が「大川筋」。
鏡川と命名されたのは豊房公の元禄時代でありますが、「鏡川」という名称は、一般には使われやあせんかったみたいです。もっぱら文人によって使われよったのが「鏡川」という名前。庶民は、相変わらず「潮江川」とか、もっと上流の現紅葉橋界隈では「雁切川」とか呼びよったがですね。
明治時代も、中頃まではその呼び名で地図に記載され、明治後半になってやっと「鏡川」という名称が地図に出て来るそうです。最近ですね、結構。