西養寺跡地の19年〔6971〕2022/05/17
2022年5月17日(火)薄曇り
こないだ、「鎌倉殿の13人」に因んで、頼朝の同母弟である源希義くんが、頼朝挙兵に際して夜須行宗と合流するべく進んだルートを検証しました。
結局は、鳶ヶ池中学校の正門前で平家方に討たれた訳やけど、伝説では、平家を恐れたというか憚ったというか、忖度した人々は、希義くんの遺骸をそのまま放置した、とされます。それを見た僧、琳猷が、丁重に荼毘に伏し、遺髪を頼朝に献上した、という言い伝え。
頼朝はそれに涙した、と言い、そして、希義くんの菩提を弔うべく、介良の地に西養寺というお寺を建てた、と、吾妻鏡にあるそうです。
ここは介良。介良村が高知市に合併されるまで村役場があった場所から南へすぐ。介良川を渡った山の中に、その希義くんの墓所と伝えられるお宮さんと無縫塔が、静かにたたずんでおります。ここが、西養寺があった場所とされ、その卵型の石塔が、希義くんの墓所であるとして、地元では大切にされてきた、と言います。真偽のほどは明らかではないけど、ここが、頼朝の同母弟で、頼朝挙兵の際に平家方に討たれた源希義くんに縁のある場所であるのは、間違いない。
土佐へ配流になった希義くんがどこに住んでいたのかは諸説あって、なかなか詳らかではないが、この静かな山中が大切な場所であることには変わり、ありません。
ここへ初めて訪れたのは2003年12月13日のこと。もう、19年も前になるのか。あの時はまだ、土佐の歴史などに詳しい訳でもなく、結構いいかげんなこと書いてます。が、その時の写真と今の写真を見比べると、タイムスリップしたかのように、変わってません。
説明板も、周囲の雰囲気も、あのときのままだ。ここだけ時の流れが止まったかのような、そんな静かな空間でした。「鎌倉殿の13人」に登場でもしてくれたら、もう少しこの場所の注目度も上がっておったんでしょうけどね。
ここにあったという西養寺さんは、明治初期の廃仏毀釈の嵐の中で廃寺となったと言います。人間ってのは、こういうどうしようもない行動に走ることがあるね。
世の中はどんどんと変遷し、介良の風景も変わっていくけど、この山中のたたずまいはそんなことには関係なく、悠久の時間の中で自然に融け込んでいきます。