無くなった戦争痕跡と高見山の山焼き〔6967〕2022/05/13
2022年5月13日(金)雨
よう降ります。もう梅雨入り近いんでしょうかねー。ちと、早過ぎるが。
ここは桟橋通り。スマホに表示しているのは「古地図散歩」の、昭和初期の地図。反射して見にくいけど、青丸のところに立って写真撮ってます。
ちょっと惜しい、風景。この塀。ここには、以前ご紹介した古いコンクリート塀が、こないだまで立ってました。高知商業の塀。そしてその塀には、貴重な戦争の痕跡が残されていたのでした。こんな感じで。ここが高知商業学校だった昭和20年、米軍の空襲で空いた穴が残っていた塀。もう古かったですきんね。いつ倒れてもおかしくない。なのでこんな感じで塀が立て直されるのは仕方ないこと。願わくば、あの穴の空いた部分だけでもどっかで戦争の痕跡として残してもらいたかった。
まあ、それはともかく桟橋通り。
この今昔マップで、1907年、1933年、1965年、現在と地図を並べてみました。この劇的変化、すごい。すごいです。明治時代には一面の田んぼで、そこに地形を無視して直線上に電車を通す。昭和になり、その電車通り沿いに商業学校ができ、硫曹工場ができる。戦後になり、電車通りから左右に広がるように、市街化がどんどんと進み、現在はもう、農地は探さんとわからんくらいの街になりました。
ここが一面の田んぼだった頃の風景って、なかなか想像するのも難しいよね。でも、ついこないだまでそうだったのでした。
その潮江で、長く酪農をやっておられた野崎さんという方がいらっしゃいます。お父様は、昭和南海地震の後の状況を克明に記録しておられて、以前にご紹介したこと、あります。で、野崎さんは、僕が子供の頃は青年酪農家で、南与力町にあった工場、僕が住んでいた工場に毎日生乳を持ち込んでおられ、とてもお世話になりました。僕のオシメを換えてくれたこともあるそう。覚えてないけど。
昨日、その野崎さんに久しぶりにお会いしました。もう酪農家さんをやめて数十年になるけど、今もお元気で、シャッキでした。
お会いしたのは、高見山の山焼きについての会合。高見山、この5年、焼けてません。「街中の草原」という意味で、全国的にも珍しい植生が広がる高見山。高知大学の先生は、その貴重な貴重な植生について、牧野植物園でお話しくださいました。その植生も、定期的な「山焼き」があってこそ。
野崎さんの話では、野崎さんが若い頃は、毎年山焼きをやっていたそうです。それがいつしか、やらなくなった。そのうちに宅地が増え、山焼きというものが忘れ去られ、思い出したように「失火」で焼けてきたのが高見山。
前回、8年ぶりに焼けたときは、今までにない広範囲に火が広がりました。理由はシンプルで、長いこと焼けんかったから。燃えるものが増えすぎて、あんなにも広範囲に焼けた、ということ。
それならば、危険が増さないうちに、安全に山焼きをした方が防災上望ましいのではないか。そしてそれによって、貴重な貴重な植生が、守られる。そんなことを企む会合でした。
でも、課題はやはり地元や市民の理解。この時代、宅地に近い山を焼く、ということに理解を得るのは大変だ。この地図の頃なら良かったけど。
でもそんなこと言うておっても始まらんので、まずは地元での地道な説明活動から始めてはどうか、ということになりました。
そんな中で、地元野崎さんの証言は、貴重。どうなるかわからんけど、これからに期待したいですね。ちなみにこの会合をやることになった首謀者も、地元潮江の、このにっこりにはよく登場するKさん。なかなか、行動力が、すごい。
もうひとつちなみにですが、高知大学の先生によると、山の頂上を中心とした草原を焼いても、その火が山裾まで広がることは、決してないそうです。草原の下の植生は照葉樹林が中心。なかでも椎の木とかは燃えにくく、立派な防火林としての役割を果たすから、だそう。安心しました。
ハードルは果てしなく高そうやけど、8年焼けんかって燃えたあの山火事を見た僕には、かなりの危機感が、あります。さあ。これからの展開やいかに。取り敢えず、こんな議論が始まっていることを、多くの皆さんに知ってもらわんといかんですねー。
ここにあった戦争痕跡のように、取り返しつかんなってからでは遅いから。