木造掩体〔6962〕2022/05/08
2022年5月8日(日)快晴!
五月晴れというのでしょうか。大型連休最終日も、よく晴れてます。それにしてもこの人出。コロナ前を彷彿とさせる賑やかさは、なんか、嬉しいねー。ロングライフリープルもよく売れました。事態がこのまま進むことを祈るばかり。
今朝の高知新聞。1面にドカンと「県内初 木造掩体の写真」という大見出し。連休最終日にこのような見出しを1面にドカン。高知新聞ならではやねー。
皆さんもご承知の通り、南国市の、空港滑走路の南西側には、太平洋戦争の痕跡である掩体壕が点在します。現存するのは7基。このにっこりでも、幾度も幾度も取り上げてきました。
海軍高知航空隊が、命山を取り崩して建設されたのは戦争後期。そして、練習機「白菊」をメインの機体として配備し、鹿児島経由の特攻にも出陣したことも、幾度も書いてきました。高知県人なら知っておかんといかん、戦争の悲惨な記憶。その白菊を中心とした飛行機の機体を格納していたのが、掩体壕。戦争後期なので、当然のようにB-29が飛来してくる。そして海軍の飛行場ともなれば、かなり重要度の高い攻撃対象だったことは、容易に想像できます。そんな状況で、飛行機を格納するのに作られたのが、掩体。
今朝の記事にもあるように、作られたのは「中型15、小型9、W型17」とされてます。GoogleMapや地理院地図でも、現在残存する掩体、確認できますね。
これが大湊小学校で、その横のこれが、小型。これも小型。これも小型でこれが中型。今の衛星写真の解像度なら、すべて、ハッキリと確認できます。
戦争直後には、たくさん残っていた掩体の、それも木造の写真ともなれば、貴重だ。この写真を見る限り、デカい。そして、なかなかキレイに作られています。コンクリートや鉄筋が不足する中で、木造というのは苦肉の策やったんでしょうねー。この写真の場所は、特定されていません。
そこで、1947年10月に米軍が撮影した航空写真を見てみました。高解像度で見てみてください。下部の直角二等辺三角形が、飛行場。拡大すると、その左側に、クネクネと見えるのが誘導道。この解像度では、掩体を確認することはできませんでした。
でも、まだ1947年。木造も含め、たくさんの掩体が残っていたと推測されます。
海軍が作成した要領による木造掩体の利点は「構造が容易」「熟練工を必要としない」「防弾や爆風に対応する補強がしやすい」だって。なんか、竹槍を想像してしまいます。「防弾や爆風に対応する補強がしやすい」のであって、これは、爆風に弱いことの裏返しですきんね。
そんな戦争が終わり、平和を噛み締める記念写真。この写真を提供してくださった方の母(故人)が、「白菊」を囲む子どもたちの写真の裏に残していたというこのメモが、胸を打ちます。
「戦争は終わった」