鶴田塾、小林塾〔6961〕2022/05/07
2022年5月7日(土)晴れ!
今朝は、久々に長浜。鶴田塾跡を撮影してみました。
鶴田塾は、長浜鶴田の地に蟄居していた吉田東洋が開いた塾。その塾で学んだ生徒には、後藤象二郎、福岡孝弟、間崎哲馬、そして岩崎弥太郎など、錚々たる名前が連なります。いかに、吉田東洋の能力が頭抜けていたかがわかる。
この、高知の城下、吉田東洋さんちから陸路で行くと、10kmから11km。宇津野峠の山越えで、なかなかの距離があります。蟄居した理由は、殿様山内氏一族である旗本松下嘉兵衛を殴打する事件を起こしたから。抜きん出た知恵と能力を持つ吉田東洋にとって、よほどに我慢ならんことがあったのでありましょう。山内容堂に目をかけられ、仕置役に起用されて藩政改革に邁進していた東洋さんも、そこで一旦蟄居。3年後には再び仕置役に復帰する訳やけど、その間、この地で塾を開いて若者を指導したのでした。恐らくは、自分の思いを実現していく為の人材育成、という思いがあったんでしょうねー。
それにしても、城下からこんなにも遠い、山越えの地に、生徒さんたちはよくぞ通ったものだ。と現代の感覚で思ってはいけません。そう。おそらくは、皆んな、舟でやって来たと思われます。城下堀川から舟に乗り、浦戸湾を南下、長浜川を少し遡上すれば、長浜鶴田。
そう。海を交通路として考えたら、今とは全然違う風景が見えてくる。海を主たる交通手段と考えれば、長浜鶴田も、城下とはそんなに離れていない、そんな感覚だったんだろうと思います。
でも、手漕ぎ舟での往来は、さすがに大変だったのではないか、と思うけども、どうやら当時は潮の満ち引きを上手く利用していたみたい。満潮から潮が引いていく頃合いに城下から引き潮に乗って南下する。そして、潮が満ちていく頃合いに、潮に乗って北上して帰る。そんな感じだったのではないか、と想像されるんですね。すると、塾の営業時間も、潮の満ち引きに合わせていたのかも知れんですね。知らんけど。
吉田東洋というと、あの、大河ドラマ「龍馬伝」での田中泯さんの怪演が印象的だった。「あしは天才じゃき、何をしたちかまんがぢゃ」というセリフは、吉田東洋の人となりを見事に表現してて、感心したことでした。
今、鶴田塾跡はこんな感じ。この辺は四万十帯なので、この石積みも砂岩。当時の石積みなのか、後世のものなのかは、わかりません。しかしこの地で俊秀が学び、日本という国をつくりあげていったと考えると、なかなかに感慨深い。
鶴田塾は、別名小林塾ともいいました。しょうりん塾。ここから西に、名刹、小林山雪蹊寺さんが鎮座するので小林塾。しょうりん塾。
僕が小学5年6年と通ったのは、蓮池電停近くにあった小林塾。こばやし塾。漢字はおなじ小林塾やけどね・・・