希義行宗合流ルート、鞍掛の岩〔6955〕2022/05/01
2022年5月1日(日)薄曇り
5月になってしまった。早いねー。
今朝は高知。昨日、成田から飛行機で帰ってきましたが、満席。どこもかしこも、かなりの人出のゴールデンウィーク。高知のお土産物売り場では、新発売のロングライフリープルが存在感を放っておりました。いい風景です。
さて。「鎌倉殿の13人」、観てますか?
僕は日曜夜は8時前には寝てしまうので、観れてません。が、なかなか面白そう。評判もいいみたいっすね。複雑にして入り組んだ時代がテーマやけど、それを上手くドラマに仕立て上げているのでありましょう。
源頼朝の従兄弟や弟は、皆、非業の死を遂げていったりします。ドラマでどういう描かれ方をしてるのかは知らんけど、史実として、なかなかに凄絶。で、幾度もこのにっこりで書いてきたように、頼朝の同母弟にして義朝の五男、源希義さんは、平治の乱の後、土佐へと流されておりました。そして、介良に住み、介良の冠者と呼ばれたというのが定説。吾妻鏡に、介良に住んだ、と書かれてます。
しかし土佐史の先輩が、実際に住んでいたのは国衙の近くではなかったぁ、という説を土佐史談に書かれ、それも説得力あるなー、という話を書いたこと、あります。
頼朝挙兵に呼応して、土佐の源家の中心人物、夜須七郎行宗と合流すべく東進している途中、南国市の鳶ヶ池中学校の前で平氏方の蓮池家綱らに討たれた、とされる源希義さん。介良から、夜須七郎と合流する途中で年越山で討たれた、というのは、少し遠回りになるのではないか、と、僕も考えました。しかし。
そうでもないかも知れん、と、検証してみることにしたのでした。GWやし。
ここは、鳶ヶ池中学校の前。介良を脱出してやって来た希義くんが、愛馬の鞍を掛けたという「鞍掛けの岩」が、この頭が少し顔を出しているチャートだと言います。そして、この東で、希義くんは討たれた、とされます。
土地の状況がわかるように、地形分類図で、希義くんが通ったルートを検証してみました。この十字の場所が、介良。で、ここで喉が渇いて水を所望、この十字の場所で湧水を柏の葉に掬って飲み、そしてこの十字の場所で岩に鞍を掛けて、討たれる。合流しようとこの十字の夜須から西進してきていた夜須七郎行宗は、この十字の場所、野々宮神社で希義くんが討たれた情報を聞き、夜須へと引き返す。
さあ。どうでしょうか。因みに国衙は、この界隈。
たしかに、合流ルートが北に寄り過ぎている気もするけど、事情があったのかも、知れない。さあ。真実は、どこに。
興味は尽きんけど、解明は難しいでしょうねー。
いずれにしても、頼朝の同母弟が、土佐で挙兵に呼応して平家方に討たれたのは、事実。もし、討たれなかったら、その後の土佐の歴史も変わっただろうなー、などと思いながら、鞍掛の岩を撮影してきました。
この鞍掛の岩、この水路の工事の際にはこんなになってて、どうなることかと思うたけど、ちゃんと保存されています。
大河ドラマに希義さんは登場せんみたいですが、土佐にも源平合戦とそれに続く騒乱は、ありました。