藤村製糸さん〔6947〕2022/04/23
2022年4月23日(土)薄曇り
いつの間にやら太陽光発電に。
今日は奈半利へ来てます。中芸の東端、奈半利。近世には林業や中継港として栄えた奈半利。その奈半利で林業と捕鯨によって財を蓄えた藤村栄太郎さんが大正6年に創立したのが、藤村製糸。養蚕が盛んであった時代、日本の輸出産業の基幹が生糸であった時代には、全国にたくさんの製糸工場がつくられました。もちろん代表的なのは世界遺産にも登録された冨岡製糸場やけど、高知にも、なかなか素晴らしい製糸工場があったのでした。
ここが製糸工場として稼働していたのは、2005年まで。しかしそれ以降も建物群は残り、あの独特に機械設備とかも見ることができたと言います。その建物が取り壊されたのは、恐らくは2013年のこと。もう9年も前に取り壊されてたんだ。知らんかったー。
現在の衛星写真は、これ。1960年代、まだ製糸業が華やかだった時代の航空写真が、これ。
僕は、操業をやめた2005年のこと、覚えてます。糸屑とかの雑燃料で燃やすボイラーが要らなくなる、という記事を新聞で見て、ちょっと興味を持ったのでした。なかなか面白そうなボイラーだと。結局、そのボイラーを見に行くことはなかったけど、とても印象深く覚えているのでした。
もう、あれから17年になるのか。
日本の生糸生産量のピークは1930年から1940年頃にかけてで、年間4000万kg生産してたと言います。藤村製糸さんがここの工場の操業をやめた2005年頃の生産量は、20万kg。なんと、200分の1だ。
その頃、「器械製糸」で製糸されてたのは、群馬の碓氷製糸、茨城の須藤製糸、山形の松岡製糸、それにここ、藤村製糸の4社だけ、と言われてたそうです。
その後も減少しているのも間違いないですね。
藤村製糸さんは、製糸をやめた訳ではありません。ブラジルに工場を建て、現在もそちらで営々と製糸業を営んでおられるのでした。産業構造、社会構造が変化した場合、業態転換を考えたりするけど、藤村さんは場所を変えよう、と発想した訳ですね。それは、なかなかすごいこと。
昔、日本でも養蚕が盛んで、そういった設備もたくさんあったけど、今は殆ど無くなりました。以前、日高村に残っていた養蚕施設を見に行ったことありますが、今はもう、ない。
この写真は、「西蔵」という建物。繭蔵として利用されてたもので、元は酒蔵なんだそう。今、製糸工場の面影を偲ばせる構築物は、この西蔵と塀しかありません。
まだ建物があって機械設備を見ることができた時に見ておくべきでした。いつでも見れる、と思うのは大きな間違い。世の中は変わってゆく。
そしていつの間にやた太陽光発電だ。