ひろめ、その場所の歴史〔6933〕2022/04/09
2022年4月9日(土)晴れ
良いお天気の週末。まだまだコロナは手強いけど、街の人出、増えてきました。そりゃあそうだ。いつまでもしまかにできるもんではありません。ワクチンも行き渡り、重症化率も減っているとなれば、みんなどこかしこへと出かけたくなります。
で、高知のお街。
ひろめ市場も、かなりの賑わいを取り戻しておりました。観光客さんも多いでしょうね。今、高知らしさを一番堪能できるのは、ひろめかも知れませんもの。
そのひろめ市場に、珍味堂さんというお店がありまして、そこでもロングライフリープル、置いてくれてました。ありがたいこと。ありがたいこと。
もし、ひろめへ行くことあったら覗いてみてください。きっと、いいこと、あります。
さて。今日は、その「ひろめ市場」がある場所の歴史を紐解いてみよう。ポカポカ陽気の土曜日ですきんね。
山内一豊さんがやってきて、城下町を建設したのが17世紀初頭。当時の戦国武将ってのは、みんな土木の専門家でもありましたので、地形を利用した高度な都市計画が実行されたのは、間違いありません。
で、現在の追手筋は、お城のある場所から東へと伸びる、大川(江ノ口川)と潮江川(鏡川)に挟まれた土地の、尾根に通された道。一番標高が高い尾根道で、その道がメインストリートになり、その道に面して山内一族をはじめとする地位、身分の高い武士が屋敷を並べたのでした。尾根道に偉い武士の屋敷が並ぶのは、江戸と一緒やね。
ひろめ市場の場所は、まさに一等地。なので、その頃の絵図を見ると、山内将監(17世紀中頃)、山内彦作(17世紀~18世紀初頭)と山内一族の偉いての名前が見えます。それが、18世紀中頃の絵図になると、深尾長門の名前が見えます。そう。土佐藩の宿老、最高実力者、深尾家が、ここに住むようになっております。山内家から深尾家へ。その経緯については、またの機会に考察しましょう。
で、深尾家。
18世紀後半には深尾主水が主人となっており、そして19世紀前半、天保の頃になると、ここの家の当主は深尾弘人。ふかおひろめ。ひろめ市場にその名を残す深尾弘人さんが当主になったのは、19世紀前半のこと。
で、幕末までここに住み、吉田東洋の改革を推進するなどの功績を上げた深尾弘人さん。弘人(ひろめ)は通称で、本名は深尾蕃顕(しげあき)。明治維新時には、土佐藩の執政、大参事。なかなか偉い人でした。
明治になり、その屋敷がどうなったのか。
明治以降の市街図を見ると、不思議なことに気付きます。このひろめ市場の周囲は、もちろん藩政期には広い武家屋敷が並んだ場所で、その跡地は学校や病院、警察などの公共施設になりました。敷地、広いですきんね。その文脈で、公共施設。
しかし、このひろめ市場のエリアだけは公共施設空白地帯。なんの施設もできなかった場所。昭和4年の市街図で、この場所にはじめて出現するのが「ヒロメヤシキ」という文字。
深尾弘人さんのお屋敷だった場所は、公共施設にならず、民家やお店が並んで「ヒロメヤシキ」と呼ばれるようになったのでした。それがいつ頃からなのか。明治からなのか大正なのか。遅くとも昭和初期には、そうなっていたことが、その市街図で、わかるね。
僕が、この隣の追手前小学校へ通っていた昭和の頃も、ここは「ひろめ屋敷」と呼ばれる路地が入り組んだ場所でした。そこに住んでいた同級生のH君とは、いまもしょっちゅう飲んでます。
そして。20世紀の終わり頃にバブル景気、そしてバブルの崩壊という激変があり、それに翻弄されたひろめ屋敷は、その翻弄の落とし子として「ひろめ市場」として生まれ変わり、この隆盛を見ているのであります。
そんな歴史が流れた場所で、今日も朝からみんな飲んでます。エイねー。