はりまや通り〔6871〕2022/02/06
2022年2月6日(日)晴れ!
良いお天気の日曜日。ここは、蓮池町通り電停のある交差点。電車通りの向こうが追手筋で、これをまっすぐ行くと、高知城。日曜市は、そこから始まります。
コロナがピークやけど、日曜市、どうなんでしょうね。観光客さんは、減ってます。県民市民も人混みは避けたいろうしねー。電車バスに無料デーも、先週で終わりましたね。少し残念。
さて。
今昔マップの、明治期の地図と現在の地図を見比べてみよう。明治の頃、この、南北の通りは存在せず、江ノ口川から北は一面の田んぼ。そしてこの界隈は「蓮池町」。この南が「種崎町」で、その南が「朝倉町」。藩政期初期、城下町が建設された際に、土佐の各所にあった町の人たちが、ここに移ってきたという名残の町名。そう。「はりまや町」という町名は、最近まで存在しなかったのでした。
はりまや橋が有名になり、観光名所になって以降にできたのが「はりまや町」。
そして、「はりまや通り」。この南北の電車通りって「はりまや通り」というストリート。らしい。最近まで知らんかったです。知ってました?
つまり、はりまや橋を通る道なので「はりまや通り」ということなのである。知ってました?
こんな感じで、町名や通りの名前が付けられていくんですね。いや、まあ、かまいやしませんが。
ここに城下町が建設された時代、まだ、浦戸湾に流れ込む鏡川水系の河口デルタで、湿地が多かったと思われます。古浦戸湾に、古鏡川が運んでくる土砂が少しづつ堆積し、デルタが形成され、そして、町になる。そこには、土佐の各所にあった町がそのまま移設され、その町の名前が町名となりました。そして。新しい名所やランドマークが生まれ、その名称がいつしか町名になってゆき、ストリートの名前にもなる。
はりまや橋商店街って、僕らにとっては「中種」で、それは中種崎町であったことを知る人は、もう、少なくなりました。
城下町が湿地帯だった中世、そのデルタの湿地帯の真ん中に所在したのが「国沢城」。たぶん、古鏡川の蛇行によってできた小高い丘があり、その上につくられた、砦。こないだ書いた鎌島城や、埼玉県の忍城のような、湿地を防御に使用した砦だったのではないか。
そんなことを想像しながら、街中を歩くのは楽しいね。楽しくないですか?
この日曜市がいつもの賑わいを取り戻す日を心待ちにしながら、しまかに過ごす日曜日。