殖民鉄道、森林鉄道、人車鉄道〔6804〕2021/12/01
2021年12月1日(水)晴れ!
昨夜は、荒れたお天気でした。まるで台風。季節外れの雨と風で、帰宅するのにビッショリ濡れてしまった。そして今朝は打って変わって素晴らしいお天気。雨上がりの朝は美しい。
今朝の日経新聞文化面。僕が日経新聞で一番読むのは、この文化面かも知れません。今朝も面白い内容が載ってましたねー。これ。
北の大地ひらく「殖民軌道」
道東、道北を開拓するために敷設された簡易な軌道。1924年(大正13年)に敷設が始まり、1972年(昭和47年)まで利用されていたという「殖民軌道」。動力は、馬。簡易な線路を引き、その上に台車を走らせる。乗るのは、農作物であったり生活物資であったり、そしてもちろん人であったり。ここにも書いてるけども、酪農家が重いミルク缶を運ぶのに利用したりしていたそう。
道東とか、湿地帯が多いですきんね。北海道は泥炭地も多いし。そんな場所では、線路の上を走る、馬で引く荷車というのは便利だったんでありましょう。
線路というものが日本に導入されたのはもちろん明治になってから。
鉄路の上を車輪で走る、という発想は画期的で、動力が何にせよ、日本中でいろんなことに線路が使われるようになったという歴史。
もちろん高知では森林鉄道。材木を運ぶのに、これほど重宝したインフラはありませんでした。
それで思い出すのは「豆相人車鉄道」。伊豆と相模を結ぶから「豆相」。ここに書いてるように、小田原と熱海の間に敷設された鉄道で、1車両6人くらいで6両編成の列車を、2~3人の人夫が押す、という乗り物。人力で押す訳やけども、それでも駕籠とか人力車に比べたら速くて安い、夢の乗り物だったようです。
当時、東海道線は、小田原から北上して御殿場周りで三島へと繋がるルートで、昔から保養地として人気だった熱海へ行くには、小田原からなんとかする必要があったのでした。熱海の旅館業主とか地元有志とかによって敷設された人車鉄道。
その後、明治41年には軽便鉄道になって「人車」ではなくなり、大正12年の関東大震災での被災によって終焉。どっちにしても、大正7年に着工していた丹那トンネルがすぐに開通して軽便鉄道は不要になるから、ということやったみたいやけど、丹那トンネルが開通するのは、なんと昭和9年。それまでは不便やったでしょうね。
この辺の話、吉村昭さんの名著「闇を裂く道」に出てきて、知りました。この本は、リニア工事に対する静岡県民の感情を考える上での必読書やね。
殖民軌道の話でした。
道東は、現在では日本を代表する大酪農地域。その黎明期を支えたのも、ひょっとしたら「殖民鉄道」だったのかも知れない。昭和47年まで存在していた、ということは、僕の世代で、殖民鉄道に乗って小学校に通った人が居る、ということで、そんな人に会って、話を聞いてみたいですな。
この記事を書いた方は、大学の鉄道研究会の旅行で「殖民鉄道」の存在を知り、職場を退職してから、「殖民鉄道」全路線を訪ね歩いて、その調査をされたとのこと。お仕事は、都ホテルの社長さんだったんだって。すごい。そういう立場の方が、こういう歴史を研究しておられる、というのが、いい。
JR東海とかは、鉄道オタクは採用しない、らしい。鉄道ってのは、夢を実現していくものであり、非日常空間を体感させてくれるものでもあるし、そして旅情をかきたててくれるものである、という意識は、これからの日本という国土を考えるとき、重要なのではないかと思うけどね。