駅と鉄道と立地条件〔6761〕2021/10/19
2021年10月19日(火)晴れ
今昔マップon the webというので、明治40年頃の江ノ口界隈の地図を見てみました。こんな感じ。これでもか、というくらいの一面の田んぼやね。こうやって見てみると、かつての日本では、都市の周辺にはその都市の人口を賄うだけの広大な田んぼが必要であったこと、わかります。とにかくとにかく、全部田んぼですきに。
その田んぼをつくるのに必要な肥料は、下肥であったり、周辺の里山の柴であったり。
都市部は下肥の供給源でもあり、田んぼの各所には肥溜めがあって、往時のニッポンは、僕らが思ってる以上に、その手の臭いが溢れてたんだと思います。
現代生活に僕らが慣れてるように、昔のニッポン人は、その手の臭いに慣れておったでありましょう。生活の為の臭いですきに。生きていく為の臭い。
で、この田んぼの真ん中に高知駅が開業したのが大正13年。この地図の17年後のこと。
鉄道ってのは、人々にとって夢の交通インフラだったことは、間違いないと思います。それまで何日もかかって歩いていた距離を、ほんの数時間で行けてしまう鉄道。その文明ショックは、それこそ僕らの想像を超えるものだったと思う。夢の乗り物。未来の乗り物。
しかしその乗り物にも、問題がありました。蒸気機関車なので、煤煙。利用するヒトにとってはとてつもなく便利やけども、利用せんヒトにとっては、ちと迷惑。かなり迷惑。
そんな訳で、当時、鉄道の駅は町の中心部から外れた人家の少ない場所が選ばれたと言います。街のヒトにとっては、迷惑施設であった鉄道。もうひとつ。以前にも書いたけど、黄害ね。
当時の汽車のトイレは、垂れ流しでした。なので、汚い話やけども、鉄道の線路沿線には、その手のニオイがつきものになっておったんです。はい。
ここで冒頭の話に戻ります。昔のニッポンには、街中にせよ田んぼにせよ、その手の臭いが多かった。そこに、その手のニオイのする鉄道が敷かれた訳やけども、やはり流石に街中でそんなニオイを発生させる訳にも参らんだろう、というのも、鉄道が街中を通らなかった理由のひとつだと、僕は思うのであります。朝っぱらから何の話をしているんだか。
で、汽車から撒き散らされる物体の害のことを「黄害」と呼んだ訳ですね。これって、最近までありました。いや、最近ってーのは僕が子供の頃までの話。僕の儚い記憶では、土讃線で初めての、垂れ流しでない汽車は、昭和47年に走り始めた特急南風ではなかったか。キハ181系。それまでは、各駅停車でも急行でも、トイレの便器から、地面が見えてました。地面が飛んでいく景色が見えてましたもの。
そんな訳で、停車中はトイレを使用しないよう、キツく申し渡されておりました。その手のモノは、走りながら垂れ流すことで、空気や衝撃によって破砕されることが期待されていたことが、わかります。僕らにとっては当たり前だった、あの風景。
今の若い人たちのは、想像もできんのでしょうね。この現代の美しい高知駅と駅から見える風景からは、想像もできない、話。