介良ルートを考えてみた〔6738〕2021/09/26
2021年9月26日(日)晴れ
穏やかに晴れた日曜日。台風がちょっと気になるけど、接近はまだ少し先。今日明日は気温も30℃くらいになって、嬉しいねー。
そんな日曜日。朝、電車通りを通って会社へ来てます。この写真は介良通り電停前。つまり、この右手が介良へとつながる介良通りで、左手が後免へつながる電車通り。地理院地図でいうと、この十字の場所ね。
以前にも書いたけども、土佐電気が電車を後免へ走らせるに際して、現在の舟入川沿いに進むルートと、介良を経由するルートとが検討されたという話を聞いたこと、あります。つまり、この分岐から右へと電車が走る構想もあった、という話。ルート的に意外に思えるかも知れませんが、この今昔マップで明治期の地図を見てみると、なんとなくその構想の理由が腑に落ちますねー。
つまり。
まず、ここが今朝写真撮った、介良への分岐。少し地図を広域にしてみると、こんな感じ。そして更に上空から見ると、こう。こう見ると、舟入川沿いの現在のルートと、高天原山の南を通る介良経由のルート、距離としては、そんなに変わらんのであります。ね?
しかも、沿線の人口を見てみると、舟入川ルートにはさしたる集落は見えんけど、介良ルートのは、介良の大きな集落がある。だから、電車通りがここから右へとつながっていく構想に、まったく無理はんかったと思われるのであります。どうでもいいですか?
いや、しかし、普通に、明治期の地図を見て計画を考えてみよう。
まず、この分岐から介良通りを通って介村の本村を突き抜ける。鉢伏山北麓を通り、介良野の集落を通って船岡山の南麓から吾岡山の北麓を通って後免へ。
こうなりました。しかし、なんらかの判断が下されて、現在の舟入川沿いルートになって、開通したのが大正14年。大津方面の人たちが電車を利用できることも考えたかも知れません。政治的力も働いたでしょうか。もし、介良ルートが採用されてたら、どんな風景になってたんでしょうね。想像するだに、楽しいねー。楽しくないですか?
このコロナでとさでん交通さんも、強烈な打撃を被っていると、新聞に載ってました。公共交通機関ですきんね。ここは、県民みんなで支える気持ちが大切だと思ってます。いち企業ではない。公共交通機関であり、重要な足であることを、使ってない県民も、みんなで考えて、支える気持ち。いや、気持ちとお金か。支えないと、どんどん住みにくい高知県になっていきます。ここはみんなの知恵で、ひと踏ん張り。