自然地形と堰と渡し舟〔6728〕2021/09/16
2021年9月16日(木)薄曇り
台風が気になるけど、今朝はまだ静かな南国市。ここは物部川。会社から少し北。この十字の場所で、Googleマップの衛星写真で見たら、ここ。
衛星写真でもわかるように、物部川の流れは、ここで、斜めに、瀬になってます。冬の渇水時には、瀬切れしてしまいそうになる場所。瀬を西へ下って、西側の堤防に沿って南流する物部側。
この流れを見てると、昔の人たちがどうやって河川を堰き止めて、そこから灌漑用水を引くようにしたのかがわかるような気がします。
最近手に入れた、高知市文化振興事業団発行の「流れと波の科学」には、「取り入れ堰の歴史、形式」という項目が立ってて、堰を構築するに際して、いかに自然地形を利用していたのかが書かれてました。いろんな方法があるけども、よく行われたのが、こういう斜めに堆積した瀬の利用。
このストリートビューがわかりやすいけど、ここには、あたかも堰のように、斜めに砂石が堆積してます。たぶん、こういう自然地形をそのまま利用して堰をつくっていったんだろうと想像できるではありませんか。有名な山田堰もそうやけど、河川の真ん中にゼロから堰を積み上げるのではなく、自然地形で堰のようになっている場所を補強する形で、積み上げるのである。
なので、昔、ここにこんな瀬と自然堰があったなら、野中兼山先生はここに堰を築いていたのかも知れない、などと素人が妄想してます。兼山先生ごめんなさい。
では、何故、ここに堰が構築されなかったのか。
上流域に山田堰や町田堰ができたので、ここに作る意味がなかったから。と、考えるのが順当ね。でも、それよりも、ここがこんな地形ではなかったのが、最大の理由だと思っておるのであります。
その証拠が、今朝のこの写真。久々の古地図散歩。
この青丸が現在地。表示されてるのは明治期の、地図。明治の頃、物部川は、あの瀬の向こう側を南東に向かって流れておりました。眼下の現在の流れは無くって、その河原は街道になっており、向こう側にあった本流に渡し船。そういう構造だったのだ。
それが、物部川が瀬を乗り越えて南流するようになったのはいつ頃だったのか。川の西側に本流が移ると、その流れは、早速に川底を抉り始める。100年も経過すると、このように川底が掘られた深い流れが西にできてしまう。そして、現在の、このような地形ができあがったのだと推測します。
つまり、かつては、こんな地形ではなく、堰を構築するような地形ではなかった、というのが僕の妄想。
野中兼山先生以来、両岸の堤防によって物部の流れは固定されました。が、それでも、その堤防と堤防の間で、流路はどんどんと変化してきたのであります。それは人為的な場合もあるし、自然にそうなった場合も、ある。100年も経てば、流路、風景が全然ちがうものになるのが、自然の摂理。変化してゆく河川の風景。
古地図を眺めていると、そんな諸行無常を感じることができるのであります。
僕らが、今、暮らしている土地は、大自然の長い長い営みの中の、一瞬の地形。その地形に逆らわず、うまく地形を使って、大自然とともに生きていく知恵。野中兼山先生は、そんな知恵と行動力を兼ね備えた巨人だった。